「偉人・敗北からの教訓」第30回は、裏切り者の汚名を着せられた小早川秀秋から学んでいきます。関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返ったとされる小早川秀秋ですが、実は彼にとっては想定外の出来事だったと言われています。小早川秀秋の敗北の歴史を紐解いていきましょう。
小早川秀秋の栄光と敗北
小早川秀秋は東軍に寝返った裏切り者のイメージがありますが、関ヶ原の戦いで東軍が勝利するキーパーソンになった人物です。小早川秀秋は1582年、木下家定の五男として近江の国に生まれました。豊臣秀吉は義理の叔父にあたり、子どもがいなかった秀吉の養子となりました。
わずか7歳で元服し、秀吉の後継者候補となった秀秋は、連日のように諸大名から接待を受け、12歳の頃にはアルコール依存症になっていたというエピソードもあります。ところが、秀秋の運命を一変させる出来事が起こります。秀吉の嫡男として、秀頼が誕生したのです。秀秋は毛利元就の三男である小早川隆景の養子となりますが、3年後に養父が他界してしまいました。その後、秀吉が亡くなると、19歳の秀秋は西軍として参加し、手腕を振るいます。ですが、関ヶ原の戦いでは東軍の勝利に貢献しました。
実は秀秋は最初から東軍につくつもりでいたと言われています。ですが、結果として裏切り者呼ばわりされ、わずか21歳で人生の幕を閉じました。
なぜ裏切り者となったのか
裏切り者として語り継がれることになった秀秋の敗北に迫っていきます。秀吉の養子となった秀秋は、実の叔母である北政所に愛情を持って育てられたと伝えられています。ですが、秀秋が12歳の時に、秀吉に嫡男の秀頼が生まれます。そのため、小早川隆景の養子に出されることになりました。秀吉が重視していた筑前の国を治めていた小早川隆景のもとに養子に出た秀秋は、秀吉の命を受けて朝鮮に出兵し、16歳の初陣にて総大将を務めたのです。秀秋にも自信が生まれたであろう戦いを終え、帰国した秀秋に、秀吉から意外な命令が下りました。それは、越前への転封(領地が移されること)です。転封によりかなりの減封となります。秀吉は朝鮮出兵の拠点となる筑前国をわずか17歳の秀秋に任せるには荷が重すぎると考え、石田三成に任せることにしたのでした。
その後ほどなくして秀吉は病で亡くなってしまいました。すると、朝鮮出兵は中止されることとなり、筑前国の基地としての役割は失われます。小早川秀秋の敗北への伏線として挙げられるのは、大人の都合に振り回され、不満が溜まっていたこと、若くしてうっぷんをお酒で晴らすクセがついていたことです。
裏切り者のレッテルを貼られたのはなぜか
秀秋が筑前国に戻った翌年に天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いが起こります。豊臣秀吉亡き後、徳川家康の横暴な振る舞いに不満を持っている者も少なくありませんでした。その筆頭が石田三成であり、毛利輝元も追従しました。秀秋は西軍に参加し、伏見城陥落を果たします。そして、いよいよ運命の時が訪れました。関ヶ原の戦いが起こる前日、秀秋は15,000余りの兵を率い、松尾山に陣取ります。小早川隊にはすでに東軍の目付役がついていたので、東軍についていたことがわかります。ですが、秀秋には迷いがありました。このまま旗色を示さずにいて良いのかということです。
ですが翌朝、思いもよらぬことが起こったのでした。それは何だったのでしょうか。気になる方は、ぜひ動画をご視聴ください。
小早川秀秋・想定外の『裏切り者』の汚名まとめ
小早川秀秋は実は裏切るつもりはなかったとも言われています。ですが、あることで裏切り者のレッテルを貼られることになりました。それはどんなことだったのでしょうか。小早川秀秋の敗北の瞬間をはじめ、彼の敗北から学ぶべき教訓を知りたい方は、ぜひ動画をご視聴ください。