石田三成が関ヶ原の戦いで敗北した理由とは 

石田三成が関ヶ原の戦いで敗北した理由とは 歴史

日本の歴史に名を刻む偉人たちは私たちがイメージする通りの人物だったのか、偉大な功績や意外な素顔に迫り、履歴書にまとめて、現代にも通じる人生哲学を学ぶ偉人・素顔の履歴書。今回は、石田三成を紐解いていきます。 

石田三成の人生を振り返る

石田三成の人生を振り返る

 関ヶ原の戦いで、西軍の実質的なトップを務めた石田三成ですが、これまでは悪役としてイメージを持たれています。石田三成は豊臣秀吉が天下統一を図る支えとなった人物ですが、秀吉との出会いはなんと15歳の時でした。秀吉は、まだ年若い三成の才能に気づき、すぐに自分の元へと引き上げたのでした。検地や刀狩りを全国で推し進めるなど、豊臣政権の国家統治や都市開発にも能力を発揮し、豊臣政権を支える欠かせない人物となっていったのです。 

 ですが、武断派と対立し、秀吉が亡くなった後は、徳川家康と対立することになります。豊臣家を守るべく家康を倒そうと決意した石田三成は関ヶ原の戦いへと挑みました。三成率いる西軍は裏切りなどが重なり、家康率いる東軍に敗れます。石田三成は自害せず捕えられます。自害しなかった理由を問われ、「生き残ったのは次節を待つため」と答え、最後は処刑されました。最後まで豊臣家を守ろうとしたのが、石田三成の人生でした。 

異例のスピードで出世を遂げた三成の才能

異例のスピードで出世を遂げた三成の才能

 文禄の役では、朝鮮総奉行に任命され、大量の船を調達して、10万とも20万とも言われる兵士を送り込みました。倉庫の建設、港の建設、武器の調達、船の調達や食料の調達など、あらゆることを計算し、計画、手配して任務を実行したのでした。ですが、日本から連れてきた農民らが脱走し、田畑が荒れ果てます。 

 石田三成は、秀吉が満足するレベルでどこで手を引けるかも考えていました。トップが進撃しろと命令するのに対し、そこにストップをかけられる部下であったと見られています。 

 一方、領民思いであることも伝えられており、誰に対しても真面目という素顔も持ち合わせていました。太閤検地においても手腕を発揮し、現場・現物・現実・原理・原則という今の時代につながる製造業の五ゲン主義を実践し、着実に成し遂げたのです。天下統一という秀吉の夢を、合理的かつ着実に叶えていったのが石田三成の才能でした。私利私欲はないものの、自信家で完璧主義者なところが、反感を持たれることもありました。 

戦と石田三成

戦と石田三成

 賤ヶ岳の戦いにおける美濃大返しでは、柴田勝家をけん制するためにあらかじめ情報戦を行っていました。偵察しながら上杉家との交渉も行っていたのです。これにより、柴田勝家を自害に追い込みました。 

 もっとも、石田三成は自分が戦に長けているとは思っておらず、強い武将を集めることや与えられた佐和山城においては、城の外観だけを立派にして中は板張りにして周囲をけん制するなど、知恵を働かせていたのです。秀吉の夢を叶えるために、自分に劣っているところがあるなら、別の手段で補うというのが石田三成のやり方です。履歴書に書き加えられた特技は、情報収集と分析、悩みは自分を分かってくれる人とはわかり合えるが人の気持ちが読めないこと、人生の夢は豊臣家の繁栄でした。 

関ヶ原の戦いで勝てなかった理由

関ヶ原の戦いで勝てなかった理由

 天下分け目の関ヶ原の戦いはわずか1日で勝負が決したとされていますが、実際には1ヶ月ほどの時間がかかったと考えられています。東軍は7万5,000人、西軍は8万5,000人の兵士を持ち、陣地を構えた位置からしても西軍が有利な情勢でした。家康の陣地が丸見えとなるような場所に布陣したのにもかかわらず、西軍が敗れた真の理由は何だったのでしょうか。興味深い理由については、番組を視聴して真相を確かめてください。 

偉人・素顔の履歴書 第11回「豊臣政権の名奉行・石田三成 編」 

 実のところ、関ヶ原の戦いは石田三成が設計したにもかかわらず、石田三成が負けたのはなぜだったのでしょうか。私たちが知らなかった、石田三成の素顔と戦略家としての実力、そして、最後にはそれが失敗に至った理由については、ぜひ番組でご確認ください。 

偉人・素顔の履歴書 第11回「豊臣政権の名奉行・石田三成 編」はBS11+で配信中

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