織田信長の人生における敗北を3回にわたりフィーチャーするシリーズが始まります。第1回は、信長の義父・斎藤道三との同盟に焦点を当て、その背景や教訓を探っていきます。
斎藤道三の人物像
斎藤道三は、戦国時代に美濃の支配者となり、「美濃のマムシ」とも称されるほどの知略を誇りました。道三は織田信長の義父であり、信長にとって最大の理解者であり後ろ盾でもありました。しかし、道三の息子である斎藤義龍との対立から、親子の内戦に発展し、信長は義父を失う結果となります。
道三と信長が同盟を結び、強固な絆を築く一方で、その絆は彼らの周囲に軋轢を生み、最終的に道三の命取りとなりました。歴史学者の伊東さんは、この同盟の破綻が信長にとっての「敗北」として捉えられる理由を、新たな視点で解釈しています。
信長と道三の同盟、そしてその破綻
織田信長と斎藤道三が同盟を結んだ理由は、双方に利益があったからです。越前の朝倉や近江の六角とも対立していた道三は、尾張との同盟は渡りに船。濃姫との政略結婚で互いの安全を確保しました。道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を高く評価し、「我が子はうつけの門前に馬をつなぐ(服従する)」と語ったと伝えられています。
しかし、この深い絆が道三と息子・義龍の対立を招く原因にもなりました。伊東さんは、道三が義龍を見限り、家督を譲った後も実権を手放さなかったことが義龍の反発を強めたと指摘しています。結果として、長良川の戦いで道三は義龍に討たれ、信長は後ろ盾を失うことになったのです。
もし道三が斎藤義龍との戦いで命を落とさなければ、信長の運命は大きく変わっていたかもしれません。しかし、道三の死は信長にとって試練となり、自らの力で戦国時代を生き抜くための重要な転機となりました。
信長・道三から学ぶべき人生の教訓
信長と道三の同盟関係は、互いの戦略的利益に基づく強固なものでしたが、その深い信頼が道三と息子・義龍の反発を招く一因ともなりました。義龍を過小評価し、家督を譲った後も実権を手放さなかったことが義龍の不満を募らせ、ついには父親への反乱へとつながったのです。この出来事から学ぶべきことは「子供を過小評価しない」ということです。伊東さんの詳しい見解は、ぜひ番組をご覧ください。