天下泰平を実現した徳川家康。しかし、その道のりは敗北や挫折に彩られていました。今回は、家康が22歳の若さで直面した「三河一向一揆」に注目し、この敗北が現代に示す教訓を考察します。
️若き家康を苦しめた三河一向一揆とは?
1560年、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討ち取ったことにより、家康(当時は松平元康)は主君を失います。これを機に家康は今川家から独立し、三河一国の統一を目指す野望を抱きました。しかし、義元の嫡男である今川氏真はこれに激怒し、三河への侵攻を開始。家康はその対応に追われ、熾烈な攻防が繰り広げられました。
次第に長期化する戦いで家臣団や兵は疲弊していきます。さらに間の悪いことに、家康の地元・岡崎では、浄土真宗一向宗の信徒たちによる大規模な暴動が勃発していたのです。
一向宗との対立はなぜ起きたのか
家康は三河統一の過程で、寺院から穀物を強制徴収するなど強硬策を取りました。「守護使不入権」が常識だった世の中で、家康は一向宗の団結力を過小評価し、強引に徴収を行ったのです。僧侶や門徒たちはこれに反発。一向宗は一揆を起こし、さらに家康の家臣の多くも反旗を翻します。その勢いは、家康の想像を超えるものでした。
家康の大きな誤算、それは一向宗という宗教勢力の影響力を軽んじたことだと伊東潤さんは語ります。三河では一向宗が矢作川の水運を握るなど、領主権を脅かす存在となっていました。三河を治めるために一向宗の力を削ぐことは避けられない状況でしたが、家康が家臣に命じた行動は、やがて「三河一向一揆」を引き起こすことになります。
️家康 対 一向宗 避けられぬ戦いの結果…
家康と一向宗の戦いは、約半年にわたる激しい攻防の末、家康が不利な条件を飲んで和睦を結ぶ形で終結しました。この戦いにおいて、家康は領内統治の難しさや宗教勢力の影響力の大きさを痛感したことでしょう。
しかし、家康は転んでもただでは起きません。敗北という形ではありましたが、和睦によって一時的な平和を得た家康は、その後に大胆な行動を取ります。失敗から学びを得て、信頼できる家臣団を一から再構築したのです。家康がどのようにしてピンチを打開し、三河統一へ進んでいったのか、詳しくはぜひ番組をご覧ください。