偉人・敗北からの教訓 第46回「シリーズ家康③ 家康と嫡男・信康の切腹」

偉人・敗北からの教訓 歴史

天下泰平を築いた徳川家康。その輝かしい功績の裏には、多くの敗北と挫折がありました。シリーズ3回目の今回は、家康の生涯最大の苦悩とされる「信康事件」を取り上げます。妻と後継者を同時に死に追いやってしまう悲劇はなぜ起こったのでしょうか。

嫡男・信康と築山殿をめぐる信康事件とは

偉人敗北からの教訓 家康と信康の関係

1556年、家康は今川義元の姪にあたる築山殿を正妻に迎えます。今川一族の築山殿と国衆の家康とでは、身分に大きな差がある格差婚でした。婚姻から3年後には嫡男信康が誕生しますが、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に打たれると風向きが変わります。

織田信長の娘と信康との婚姻、今川氏との決別など、築山殿にとっては苦しい状況に。家康は岡崎城に築山殿や信康を残し、、浜松で武田を相手に激戦を繰り広げていくのでした。

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そんな中、信康と築山殿の謀反の噂が信長の耳に入り、家康は信長との同盟を守るため、苦渋の決断として2人を岡崎から追放。信康はその後、切腹することになるのです。

妻と嫡男を同時に死に追いやるという、戦国大名でも滅多にない厳しい処断をした背景には、築山殿との夫婦関係のもつれがありました。

家康の決断とその背景

戦国大名の正妻は、家の奥向きを取り仕切る共同経営者として大きな権限を持っていました。家康はこの共同経営者との関係づくりに失敗したのです。

偉人敗北からの教訓 夫婦のもつれ

築山殿の身分が家康より高かったこと、さらに家康が侍女との間に子をもうけたことなどが原因で、夫婦間の亀裂が広がりました。家康はこれが家中分断の危機につながるとは思いもよらなかったのかもしれません。 やがて武田との戦が長引く中で領国が疲弊していきます。岡崎衆による謀反が起き、築山殿の関与が疑われるようになります。同時に、信康の残虐な行動や家康の注意を無視する態度が問題視され、五徳(信長の娘)との夫婦喧嘩も発端となり、五徳は信康の謀反を信長に告げるようになります。家康は信長の指示を仰ぎましたが、信長の返答は「家康の思う通りにすればいい」というもの。家康は決断を迫られました。

辛い決断を迫られたとき、家康の教訓から学ぶこと

歴史作家の伊東潤先生は、この決断を「家康最大の失敗」としながらも、結果的に家康のリーダーシップを成長させた転機だったと語ります。家康はこの後、後継者選びに慎重になり、最終的に三男の秀忠を後継者に選ぶことで、徳川家の天下を260年余りにわたり維持していくことになります。

偉人敗北からの教訓 伊東潤

人生やリーダーシップにおいて、何かを得るためには何かを手放さなければならない時があります。そんな辛い決断を迫られたときこそ、冷静さを保ち、自分の信念を見極めること。家康の敗北から学べる教訓はたくさんあります。詳しくはぜひ番組でご覧ください。

人・敗北からの教訓 第46回「シリーズ家康③ 家康と嫡男・信康の切腹」はBS11+で配信中

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