「シリーズ秀吉に敗れた武将たち」第3弾は、九州の覇者として知られる島津義久の敗北を取り上げます。島津氏といえば強いイメージですが、実は内部に脆弱な基盤を抱えていました。九州制覇寸前まで上り詰め、秀吉に敗北した島津氏。その強さと弱さの謎に迫ります。
島津義久と豊臣秀吉との関係
1533年、薩摩の名門・島津家に生まれた義久。1554年、義弘とともに大隅の国人衆との戦いで初陣を飾り、12年後に家督を継いで島津16代当主となります。先祖代々の悲願である三州統一に乗り出した義久は、弟・義弘の軍事的才能を活かしながら、着実に版図を広げていきました。

1572年、義弘が木崎原の戦いで勝利すると、わずか5年で三州統一を成し遂げます。さらに1578年、九州北部の大名・大友氏を高城・耳川の戦いで破り、続く沖田畷の戦いでは龍造寺隆信の首を挙げる大勝利を収めました。九州最大勢力となった島津氏の前に立ちはだかったのが、関白・豊臣秀吉でした。
両殿体制の限界

そもそも義久は勝ちすぎることを警戒し、深追いを避けて和睦を重視していました。豊臣政権が末端まで統一された組織であるのに対し、島津氏は国衆たちの自立性が強く、基盤が脆弱であることを義久自身が認識していたのかもしれません。重要な決定は重臣たちとの合議で行い、時には霧島神社のくじ引きで決めるなど、慎重な姿勢を貫いていました。

秀吉との直接対決を避けるため、義久は弟の義弘を名代とする両殿体制を敷きます。しかし、家臣たちは秀吉の停戦命令や所領裁定案に激しく反発。現場の判断と義久の意向の齟齬が生まれ、この両殿体制は裏目に出ることになりました。20万を超える豊臣軍の前に、ついに義久は出家して秀吉に降伏を申し入れることになります。義久に、勝利する道筋はなかったのでしょうか?
変革できなかった組織

歴史作家の伊東潤先生は、島津氏の誤算は前時代的な領国支配体制から脱却できなかった点だと指摘します。「新時代に対応していくためには、旧体制を刷新せねばならない」と伊東先生は語ります。現代企業でも、組織を変えず硬直化させれば必ず衰退します。外部環境に応じて組織を革新し続けること。たとえ一時的な「強さ」があったとしても、それに慢心せず変化を恐れないこと—これが島津義久の敗北から学ぶべき重要な教訓なのです。
番組ではさらに詳しく、秀吉への降伏後も島津家の存続に尽力し続けた義久の晩年や、関ヶ原の戦いを経て明治維新の原動力となっていく島津家の歴史についても紹介しています。ぜひご視聴ください。