徳川家康から出奔した石川数正の半生とは

歴史

 惜しまれつつも終了した人気番組「偉人素顔の履歴書」の番組収録後にお届けするアフタートークコーナー偉人・素顔の履歴書~偉人・こぼれ噺~「第53回 石川数正みどころ&教えて加来先生!」。石川数正のエピソードについて歴史家の加来耕三先生が教えてくれました。

石川数正

石川数正とはどのような人物だったのか

 石川数正は徳川家康の忠実な腹心であり、家康の側近として重要な役割を果たしました。しかし、彼のことを知っている人は限られています。石川数正について語られると、反射的に「あぁ、彼は家康を裏切って豊臣秀吉の元へ走った人物だ」と思いがちですが、これは実は誤解です。彼の詳細な偉人像を本編でご覧いただくことをお勧めします。

『偉人素顔の履歴書 第58回「家康の懐刀と呼ばれた智将・石川数正 編」』

 石川数正は家康を支える中心的存在でした。諸説ありますが、年齢的にはおおよそ10歳ほど家康よりも上だったと考えられています。そのため、彼は若い時期に三河に独立し、最初に家康を支えた人物の一人でした。

 彼は徳川家臣団の中でも非常に重要なポジションを担当しており、当時の戦争や行軍の中でも彼は最後尾を担っていました。徳川家の兵力の3分の1を指揮しており、その合戦においても優れた力を発揮し、外交政策にも優れた人物でした。そんな彼が家康から秀吉に寝返ったという話が有名ですが、その真相を番組を通じて考えていただければと思います。

石川数正編

石川数正は何故、徳川から豊臣に寝返ったのか?出奔の理由とは

 石川数正が家康を裏切ったのは実は53歳の時。その時点ではかなり晩年に近いタイミングでした。長い間、家康を支え続けてきた彼が、なぜ最後の最後で裏切ったのか。この疑問は本編で詳しく解説されている重要なポイントです。

 一般的には歴史番組で彼を「裏切り者」と見なす傾向がありますが、それは単に答えだけを知っているということに過ぎません。彼が裏切った理由や、どのような状況に置かれていたのか。それまで一度も裏切りを行わなかった人物が、なぜその時に心中したのかを考える必要があります。その際には、時代の年表を参考にしながら、様々な推理を行っていただくと視点が広がるでしょう。本編を見ていただくと、より明確な回答が得られるかもしれません。

心中とは?

徳川幕府になってからの石川数正の人生は?

 秀吉の時代に、石川数正は家康から寝返りましたが、その後の関ヶ原の戦いでは石川家は家康の陣営に参加していました。なぜ家康は石川数正を許し、自身の陣営に石川家を迎え入れたのかを考える必要があります。また、石川数正の長男は後の大久保長安事件に関与し、幕府で最も権力を握っていた財政家を徳川家康が失脚させる出来事がありました。この出来事も石川数正の評価に大きな影響を与える要素となっています。

人生を知りたい

どうして首都は東京になったのか?

 諸説ありますが、当時、小田原が関東地方で一番開けた場所でしたが、小田原は北条の首都でした。秀吉は家康を困らせるために、そんなに開けていなかった江戸に行かせたのか、北条の首都を嫌ったのか、真相は分かりませんが、家康を江戸に行かせたことで、後に家康が天下を取り、江戸が首都になったのです。

 本来ならば、明治時代に終わるはずでしたが、明治時代以降も、東京はそのまま首都として維持され、改築や補修が行われました。こうして始まりは家康が秀吉によって関東に行かされたことから、現在に至っているわけです。

偉人・素顔の履歴書「石川数正編」では、石川数正の人生をダイジェストで振り返りながら、歴史家、専門家の意見をもとに、その人物像を浮き彫りにしています。ぜひご覧ください。

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