徳川家康といえば、言わずと知れた江戸幕府を開いた人物です。とはいえ、彼は天下を取るまでに数々の苦杯をなめさせられてきました。家康の前に天下を統一した秀吉に臣従したこともあります。
彼はなぜライバルである秀吉の部下になると決断せざるを得なかったのでしょうか。
信長亡き後の主導権争いを繰り広げた家康と秀吉
織田信長は、秀吉と家康の前に天下を統一した人物として有名でしょう。とはいえ、信長は1582年に家来である明智光秀に謀反され、本能寺で命を絶ってしまいました。一時的に天下人となった光秀ではありますが、信長死亡の報に接して、すぐさま駆けつけた秀吉に敗れてしまいます。
このあたりのいきさつは歴史の教科書にも書かれていることですから、皆さんもご存知ではないでしょうか。ではこの時、家康はどうしていたのでしょう。本能寺の変が起こった時、彼は信長に付き添いつつ、大坂の堺にいました。家康は、瞬時に光秀から殺されるのではないかと悟ります。
すぐさま岡崎に向かい、家康は間一髪のところで難を逃れました。そして、体勢を立て直した家康は着々と力をつけ、信長の遺志を継ごうとしますが、ここで立ちはだかったのが秀吉です。光秀だけでなく柴田勝家も倒した秀吉は、勢いに乗って天下統一に乗り出そうとしていました。これを危機と捉えた信長の次男信雄は、家康と手を組み、秀吉に対抗しようと図ります。
彼らがぶつかった小牧・長久手の戦いでは、現在の東海地方だけにとどまらず、関西地方にまで戦線が広がっていきました。長久手では家康の軍が2万しかいなかったにもかかわらず、秀吉の軍は8万と圧倒的な不利を強いられていました。そのうえ、信長の家臣だった池田恒興まで秀吉に寝返る事態にも見舞われます。しかし、家康は相手の奇襲を見切ったり、逆に相手に奇襲を仕掛けたりすることで、うまく合戦を優位に進めていきました。結果、池田恒興と森長可という主要武将を倒し、家康は大勝を収めます。
戦に勝って勝負に負けた家康?
このように、局地戦では勝利を収めた家康ではありますが、しかし最終的な勝利をもぎ取ったのは秀吉でした。長久手での結果を踏まえた秀吉は、家康と直接対決するのではなく、信雄を攻める方針を採ることにしました。秀吉の大軍に怖気づいた信雄は、戦うことなく降伏することを選びます。これによって、信長のために戦うという大義名分は失われ、家康も矛を収めざるを得ませんでした。いかに信長の血を引いているとはいえど、胆力に関しては信雄は父を継ぐことはできなかったと言えるでしょう。そんな信雄の実力を見抜けなかった家康の実質的な敗北でした。しかも、これ以降家康は秀吉の勢力拡大を防げなくなっていきます。秀吉は家康と直接闘うことなく、朝廷の威光を借りることで自分こそが天下人であるとアピールしていく方針に切り替えたのでした。その結果、秀吉は関白という天皇を補佐する最高の官職に就くことに成功します。
家康を救った天正地震
そして、秀吉はそこまで権力を掌握したところで、家康との決着をつけようとしました。はじめに、秀吉は人質を出すよう要求しますが、家康はこれを拒みます。お互いの関係が悪くなっていく中で、家康の家臣からは徹底抗戦論が出るようになっていきました。さらに、数少ない宥和派だった石川数正まで寝返ってしまって、家康はますます秀吉との対決に迫られます。秀吉は大垣城に15万の兵を動員し、家康との最終決戦に挑もうとしましたが、ここで大地震が起こりました。後に天正地震と呼ばれる大災害によって大垣城は焼失し、秀吉は家康との決戦を断念せざるを得なくなりました。一方の家康にとっては天恵の地震だったとも言えるでしょう。
あえて屈服する道を選んだ家康
地震を契機に家康は方針を転換し、秀吉と和睦することを決めました。これに応え、秀吉も家康に妹を正室として差し出すことで家臣として招きます。これによって、秀吉は最大のライバルを味方にすることで天下統一を果たすことになりました。とはいえ、だからといって家康もあきらめたわけではありません。秀吉の生きている間は自分は天下を取れないかもしれないが、秀吉がいなくなった後なら天下を取れると考え直したのです。結果、家康は秀吉の下で五大老と呼ばれるまでの地位を築くことで、自分の勢力を拡大することに成功しました。確かに、家康は完全に秀吉に勝つことはできなかったと言えるでしょう。とはいえ、あえて負けるフリをすることで最終的な勝利を手に入れる戦術を採ったのでした。
徳川家康の敗北のまとめ
私たちはプライドを重視するあまり、ついつい勝ち目のない戦いに挑んでしまうものです。しかし、そこで負けてしまってはすべてが失われてしまいます。そういった時こそあえて一歩引き、降伏を受け入れて力を蓄えるべきなのかもしれません。家康は、そうしたことができたからこそ最後に勝つことができたのでしょう。