忠臣蔵といえば、日本でも有数の人気を誇る歴史的事件です。赤穂浪士たちが主の無念を晴らすために吉良上野介を討ち入りする様子は多くの人々の感動を呼んできました。この赤穂浪士たちの討ち入りの原因となったのが、時の五代将軍徳川綱吉の一方的とも言える浅野内匠頭への裁きでした。では綱吉はどのような裁きを下すべきだったのでしょうか。
平和だった時代に起きた赤穂事件
まず赤穂事件とはどのようなものだったかご存知でしょうか。赤穂事件は1703年に起きましたが、これはちょうど江戸幕府が開いて100年の節目を迎える年でした。徳川幕府はさまざまな政治的工夫で平和な世を作り、後世から「元禄時代」と呼ばれる戦のない時代を築き上げました。そんな中で将軍の座に就いた綱吉は、儒教を学んでいたこともあって、これまでの武断政治から文治政治への転換を図ります。
とはいえ、綱吉の在任中はインフレや天変地異などが続く荒れた時代でもありました。こうした事態に対処しきれなかった綱吉は徐々に民衆からの支持を失っていきます。
事情を聴かずに裁定を下した綱吉の失敗
次に話題となるのが「松の廊下事件」です。元禄14年(1701年)3月14日、幕府が朝廷からの使者を迎える儀式をしている最中に、浅野内匠頭は吉良上野介に突然刀で切りかかったのでした。こともあろうに、朝廷の人間がいる席でそのような暴挙に出た浅野に、綱吉は面目をつぶされたとして激怒します。
結果として、浅野内匠頭は即日切腹、浅野内匠頭が収める赤穂藩も改易となってしまいました。今日の目から見れば、こうした綱吉の裁きは妥当に思えます。無抵抗だった吉良上野介に対して、一方的に攻撃した浅野内匠頭は殺人罪ないし傷害罪に問われるべきでしょう。とはいえ、即日切腹はやりすぎでした。綱吉は、浅野内匠頭がなぜそんな暴挙に出たのかという事情をまるで考慮せずに、即日切腹を命じてしまったがために、後の禍根を残す結果となったのです。
また、吉良上野介に対して何も処罰を下さなかったことも不公平感をもたらす結果となりました。刀を持って切りかかる浅野内匠頭に対して、吉良上野介は抵抗すらできずただ逃げ回るばかりで、士道不覚悟としてとがめられても良かったはずです。こうした綱吉の不公平な裁定により、赤穂藩の藩士たちは鬱憤を溜め、民衆は彼らに討ち入りをけしかけるようになっていきます。
討ち入りをそそのかした綱吉?
徐々に綱吉は追い詰められますが、いまさら裁定を覆すわけには行きません。その結果、綱吉はあたかも赤穂藩の者たちに討ち入りを促すような動きを取っていきます。まず綱吉は、吉良邸を江戸城の近くから隅田川の対岸に移すよう命じ、さらに上野介に近い旗本を罷免しました。さらに、内匠頭を継いで赤穂藩主となった浅野大学の所領を没収します。これにより、赤穂藩の再興の望みはなくなり、浪士たちは吉良邸への討ち入りしか選択肢がなくなりました。
結果、元禄15年12月14日赤穂浪士は吉良上野介の首を討ち取るにいたります。これに対して綱吉は、四七人の浪士たちを「天晴な者ども」と称えました。こういった一連の経緯を踏まえれば、綱吉こそ赤穂浪士たちの討ち入りを誘導したと言えるでしょう。
自らの方針を一貫できなかった綱吉
そもそも綱吉は文治政治を志したにもかかわらず、赤穂浪士たちを「天晴」と称えたことを矛盾しています。諍いを暴力だけで解決するようでは平和な世の中にはなりません。事実、こうした矛盾のせいで綱吉は赤穂浪士たちへの処罰をどうするか頭を悩ませる羽目に陥ります。綱吉が奉じる儒学では、主君に対する忠義を重んじているため、赤穂浪士たちの行為は幾分か免罪するべきものでした。しかし、家臣たちはこうした行為に温情で対応していたら法治が成り立たないと反論します。迷った綱吉は、林鳳岡や荻生徂徠などといった儒学者に助言を求めますが、それぞれが相反する回答をしてくるだけで結論は出ませんでした。
最終的に、綱吉は延暦寺の座守である公弁法親王による、赤穂浪士たちに生き恥をさらさせてはいけないから死罪に処してやるべきだ、との助言にもとづき切腹を命じます。打ち首に比べれば、切腹は当時の武士にとって名誉ある裁きでした。とはいえ、最後まで綱吉は一貫しきれず中途半端な選択を選ばざるを得なかったという印象はぬぐえません。
徳川綱吉の敗北のまとめ
綱吉のように、一貫性のない選択を繰り返し続けた結果、失敗を招いてしまうのは現代でもありふれた事象と言えるでしょう。また、公私を混同し、どちらかに肩入れしてしまうことも良くないことです。
リーダーたるもの、物事には一貫性を持った方針を維持しつつ、仮にどちらかに同情したとしても、それはそれとして断固たる裁定を下せるような人間にならなければいけません。