秀吉といえば、言わずと知れた信長や家康と並ぶ戦国時代を代表する人物です。彼はさまざまな術策を駆使して戦うことで予想外の大勝利をもたらしてきました。しかし、彼は晩年、大陸への出兵を行いあえなく敗れています。なぜ秀吉は大陸に打って出たのでしょうか。そして、なぜ彼は敗れたのでしょうか。
秀吉政権はなぜ短命に終わったか
信長亡き後、秀吉は破竹の勢いで天下を統一していきました。しかしながら、秀吉の築いた政権は彼亡き後あっという間に潰えていきます。では、秀吉の天下が短かった理由を朝鮮出兵に求め、そもそもなぜ彼が朝鮮をターゲットにしたのでしょうか。
日朝関係に詳しい佐島顕子先生によると、秀吉政権は言わばフランチャイズモデルだそうです。近隣の勢力に従属するか、それとも戦争かの2択を迫り、じわじわと勢力を伸ばしていくのが秀吉の戦略でした。しかし、このモデルはここが潮時、というラインを決めることができないという弱点も持っています。
秀吉の戦略では、ありとあらゆる敵を服従させ、自らの権力を誇示し続けなければなりませんでした。もしこれが途中で終われば、秀吉の権力は薄れたのでは、とみなされ反乱されるおそれがあったのです。そのため、秀吉は自動的に朝鮮を侵略しに行かなくてはなりませんでした。とはいえ、秀吉自身、最終的には世界を征服するという具体的なプランはあったようです。実際、当時の日本の経済力や軍事力は世界トップにも引けを取らないものがありました。
反対を押し切って朝鮮に打って出た秀吉
当初秀吉の臣下は朝鮮出兵に反対していました。とはいえ、秀吉はすでに朝鮮は支配下にあると見ていたので、彼らを引き連れれば明にも勝てると読んでいたのです。そして、秀吉は肥後から15万もの船を出し、朝鮮へと臨みました。しかしながら、秀吉の計画は最初からつまずきます。大陸へと辿り着いた秀吉軍を待ち構えていたのは朝鮮軍の抵抗でした。朝鮮がすでに臣従しているとの情報は、実は小西行長の嘘だったと判明したのです。
もっとも、秀吉軍は圧倒的な戦力があったので、朝鮮軍は敵ではありませんでした。わずか半月で平壌まで侵略し、朝鮮の王子の捕縛に成功します。それに気を良くした秀吉は、自ら船に乗り朝鮮に向かおうとしますが、家康の反対により断念せざるを得ませんでした。家康は、荒れた海を渡る最中に秀吉の船が難破してしまったら意味がないと考えたのですが、実はこれが裏目に出てしまいます。
日本とは勝手が違う朝鮮への侵略は、秀吉が実際に現地を視察して戦略を練るべきでした。結果、秀吉軍は思うように朝鮮を攻略できず、さらには明からの援軍も現れ苦戦を強いられます。
プライドを捨てきれなかった秀吉
とはいえ、このタイミングで出兵を中止すれば、秀吉の沽券にかかわる事態になりかねません。そこでちょうど良く明からの和睦の提案がやってきました。秀吉は小西に命じて、明から良い条件で和睦を取り付けるよう要請します。
もっとも、そもそも明からの提案がやってきたのは、秀吉が和睦したがっているとの情報を小西が流したからこそでした。そのため、小西は自分の命惜しさに、降伏文書を偽造してまで和睦しようと図ります。そして、秀吉は小西が嘘をついていたと知りつつも、自らのプライドを保つために彼を泳がせておくことにしました。
しかし、明からやってきたのは、秀吉を日本国王とし、明の支配下にあるとする文書でした。しかも、明は朝鮮支配を許さないという文書も送ってきます。これを読んで怒り心頭に発した秀吉は、意地でも朝鮮を侵略しようと14万の軍勢を送ることに決めました。
その結果、長きにわたって人や物資を食いつぶすだけの慶長の役が始まったのですが、これによって秀吉は完全に求心力を失っていきます。そもそも、家康や加藤清正のような武将は完全に秀吉に臣従していたわけではありませんでした。そんな人間のプライドに付き合う筋合いはないとして、彼が亡くなるとすぐに朝鮮から兵を引き上げたのです。そして、秀吉亡き後の豊臣家は衰退していき、徳川家康への天下を許していく結果となっていきます。
秀吉は日本を救った?
良いところなしで終わった朝鮮出兵でしたが、思わぬ副作用もありました。平川新先生によると、朝鮮出兵により日本の軍事力が世界に知れ渡った結果、スペインなどをはじめとしたヨーロッパの大国が日本に攻め込むのを諦めたそうです。
そのため、ほかの諸国と違って日本は植民地にならず、江戸時代という長きにわたって平和な時代を送れるような土地となっていきました。
豊臣秀吉敗北のまとめ
秀吉は、農民から天下人になったという経歴の持ち主であるため、人気のある人物です。一方で、彼は自分一人で出世してきたという自負があったため、周囲の意見を聞かないという難点もありました。戦争のように、多くの人を動かす作戦を実行する時は、自分一人で何もかもを動かそうとしてはいけません。周囲の意見に耳を傾け、時には自分の意見を曲げるような柔軟さも必要になります。