なぜ毛利輝元は敗北してしまったのか

なぜ毛利輝元は敗北してしまったのか 歴史

 歴史の研究が進むと、これまで成功者と思われていた者が失敗者である場合やその逆という説も出てきます。今回は、石田三成に従って関ヶ原の戦いに挑んだとされ、消極的なイメージのある毛利輝元を紐解いていきます。実は最近の研究では、積極的に関わったとされているのです。そんな毛利輝元の敗北について紐解いていきましょう。 

毛利輝元とはどんな人物だったのか

 毛利輝元は、1553年に現在の広島である安芸の国の毛利隆元の長男として誕生しました。
13歳で元服して、初陣を飾っています。ですが、まだ幼かったので祖父の元就との二頭体制を採ることや小早川隆景と吉川元春という2人の叔父から厳しく育てられました。彼らの意見を尊重してきた輝元は、決断力と統率力に欠けていたと言われています。

 ですが、領土獲得に意欲を示すようになり、26歳にして元就の時代の領土を上回る国土へと成長させたのです。その手腕は、15代将軍の足利義昭が頼るほどのものになっていました。成長した毛利輝元は織田信長と豊臣秀吉と対立しますが、やがて豊臣秀吉を支える五大老の一人になります。

毛利輝元の栄光と敗北

 そして、秀吉が亡くなり、五大老筆頭であった徳川家康の時代になると、西軍の総大将となって家康が率いる東軍と闘いました。これが、天下分け目の関ヶ原の戦いです。大阪の陣で敗れた輝元は、家康と所領安堵を約束し、大阪城を去りました。ですが、家康に裏切られ、8国の領土を2国に減らされてしまいます。輝元屈辱の敗北でした。なぜ輝元は名門であった毛利家を没落させてしまったのでしょうか。関ヶ原の戦いを巡る輝元の敗北の原因を探っていきましょう。 

輝元が敗北にいたるまで

 73歳まで生きるという当時としては長生きの人物で、関ヶ原の戦いに敗れながら生きながらえたのも不思議なくらいです。なぜ生きながらえたのかは、領土を減らされてから、輝元が本領を発揮したのではないかとも考えることができます。輝元の父親は43歳で急逝しているのです。輝元が決断を他人に委ねることや他人を頼ってしまう優柔不断なところがあるのは、幼少期に父を亡くし、祖父や叔父たちに頼りながら成長してきたからと考えられています。関ヶ原の戦いを巡る輝元の敗北の原因の伏線となったのは、家康への不満だと言われていますが、いったいどういうことなのでしょうか。 

家康への不満

 秀吉に可愛がられるようになった輝元は、広島の地で、山城から経済の拠点がある海沿いの平城へと移ります。輝元は長く子どもに恵まれなかったため、弟の子である秀元を養子に迎えますが、その後43歳の時に実子が生まれます。そのため、養子にした秀元の処遇に悩んでいました。そんな時、家康が口出しをしてきます。毛利家のドタバタを仲介してやると言ってきた家康に対し、同じ五大老の立場にある家康から所領問題に口を出されたことに不快感を覚えます。秀吉ならまだしも、なぜ同格の立場にある家康にものを言われなくてはならないのかという不満です。 

 また、秀吉は生前に「西は輝元、東は家康に任せる」と言い残していましたが、家康が西側にも影響力を及ぼしたのも気に食わなかったのです。もっとも、通説では石田三成に担がれて、仕方なく西の総大将になったと言われていますが、最近の研究では、家康に倒すために、自ら進んで西軍を率いたと言われるようになりました。家康を打倒するために動き出したのです。 

家康の独走を阻止する

関ヶ原の戦いで家康に大敗北をした理由

 石田三成の挙兵を知り、輝元は広島から大阪へと駆け付けます。広島から大阪まで、わずか2日で着いたという当時から見ると驚くほどのスピードでした。そのため、前々からいつでも出陣できるよう、兵の準備や船の手配をしていたものと推測されています。その当時の家康の心境は、同じ五大老として輝元は兄弟のような存在と思っていたようです。 

 そのため、家康に反旗をあげた石田三成の陣営につき、輝元が西軍の総大将となったことに驚いたのではとされています。輝元は、家康を殺そうとまでは思っておらず、家康と互角以上の力を持つ、西国の統治者となることを望んでいました。もっとも、毛利家の家臣たちは、輝元の行動に異を唱えていました。特に、輝元を厳しく育てた叔父の吉川元春の子で、輝元のいとこにあたる広家は、家康に勝てるわけがないと思っていたのです。毛利家と徳川家の兵力の差は歴然であり、戦略家としての能力も家康のほうが圧倒的に勝っていたからです。
そこで、広家は東軍を通じて家康に書状を送ります。そこには、「輝元は決起に関与していない、毛利領の安堵を請い願う。」といった内容が書かれていました。輝元は家康と対等の立場以上に君臨することを願っていたのに対し、家臣たちはお家の安泰を願っていたのでした。

 一方、輝元は秀吉が生前に西は任せると言っていたことから、西へと領土を広げようと動き出します。これを知った家康は、輝元が本気であることを知り、怒りを覚えます。
そんな中、東軍から所領安堵の書状が届き、徳川方と毛利家の間で秘密裡に講和が結ばれました。輝元は、家康が所領安堵を約束したと思い込んでいましたが、実は、それは家康の家臣が記したものに過ぎませんでした。家康は後で言い逃れができるように、自分ではなく、家臣に書かせていたのです。 

西軍完敗と毛利軍の生き残り

 関ヶ原での戦いの後、西軍の武将の一部も東軍に寝返ったこともあり、西軍は12,000人もの死者が出るほどの大敗でしたが、毛利軍は一人の死者も出さずに戻ります。家臣は、毛利軍には余力があるから戦うべきと進言しましたが、輝元は拒否しました。輝元は、もともと家康を滅ぼすことまでは考えておらず、家康によって所領が安堵される約束がなされているなら、それ以上闘う必要も、家康を滅ぼす必要もないと考えていたからです。豊臣秀頼を擁して大阪城に籠城されると困ると考えた家康は、輝元に今後も良好な関係を望んでいると返答します。すると、輝元たちは大阪城から出ていきました。 

 一方の家康は、それを見計らって、大阪城へと入場し、西軍の首謀者として安国寺を殺害します。そのうえで、毛利家に対して、周防と長門の2ヶ国のみに減俸すると領土減俸を言い伝えたのです。 

輝元の敗北 112万石からの大滅封

 輝元、痛恨の敗北の瞬間です。家康に騙されたと思ったことでしょう。家康は、所領安堵の証文は家臣が書いたものに過ぎず、自分はそんな考えはなかったと言い放ちます。毛利家も家康に反乱を起こしても勝ち目はないとわかっているので、抵抗することはありませんでした。輝元は命がなくなるより、2つだけでも国を守っていくことが大切と考え、お家の建て直しを進めることにしたのでした。 

輝元と家康が考えていたこととは

 輝元が大阪城に入った理由はいまだに謎です。伊東潤さんの見立てとしては、とりあえず大阪城に入り、自分に味方してくれる人が増えれば家康を攻め、家康の味方が多いならあきらめようと思っていたのではないだろうかと考えていました。 

 一方の家康は、毛利家の本気度を推し量っていたのではないかとの見解です。それは、毛利家が家康に恐れられるほどの力を有していたことを示しています。毛利家は古くからのブランド力があったので、実力以上に家康に恐れられる存在だったわけです。 

 そのため、本来ならブランド力を利用して前に出て来てはいけなかったところを、石田光成に加担することや大阪城に入城するなどしたため、家康から裏切られたと考えられます。
毛利輝元敗北の瞬間は、次のようなポイントにあります。ここ一番の大切な決断を先送りにしたら信頼は得られません。敵対者である家康の言葉を安易に信じたことも敗北の要因です。毛利家のブランド力を活かしていたら、関ヶ原の戦いに出ることも、負けることもなかったかもしれません。

輝元の死後と毛利家

 徳川幕府に不満を抱く毛利家家中では、毎年正月になると、藩主に決起を促すための挨拶が交わされたと伝えられています。家臣が「殿、倒幕の準備が整いました。」と告げると、藩主が「う~ん、まだ早い。」と答えるという、毛利家で恒例化した挨拶です。明治時代になってから山口県萩市に建てられた、志都岐山神社には祖父の元就、父の隆元らとともに、輝元は祭神として祀られています。打倒幕府の想いが家臣に受け継がれ、萩の民たちに伝わり、萩の力倒幕という明治維新につながる力が生まれたのではと言われています。毛利家の徳川家への遺恨が、長州藩の志士に受け継がれたのです。毛利家の遺恨が、今の日本につながっているのではとさえ考えられています。 

輝元の功績

 所領を減俸された後の頑張りがすごかったのが輝元の功績です。萩の街が栄えたのも、輝元が領土再生に意欲を燃やしたからとされています。これだけの裏切りや屈辱を覚え、恨みを抱きながらも、腐ることなく頑張ったのは、輝元のすごいところです。こうした頑張りが、関ヶ原の戦いに敗北して250年余りの時を経て、長州藩が明治維新の原動力になったのかもしれません。 

 明治維新によって、関ヶ原の闘いの裏切りの鬱憤を晴らしたとも言えます。輝元の敗北から学ぶ教訓の1つ目は、決断の先送りをしてはならないということです。2つ目は、組織の長は人に頼らず、自ら決断することが必要ということです。家臣や周囲の相談を持ちかける人が一枚岩でないと、組織もバラバラになってしまうので注意しなくてはなりません。 

輝元の敗北から学ぶ教訓
一、決断の先送りは厳に慎むべし
一、組織の長は誰かを頼らず自ら決断すべし

毛利輝元の敗北のまとめ

 毛利輝元は関ヶ原の闘いに敗れたうえ、家康の裏切りにあったのは、決断力のなさと統率力のなさが敗因でした。決断を人に頼りがちな人や二代目、三代目社長も注意が必要です。組織の長は決断を先送りすることなく、他人に頼らず、自ら決断すべきというのが毛利輝元敗北からの教訓です。 

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