楠木正成はなぜ無謀な戦いに挑んだのか

楠木正成はなぜ無謀な戦いに挑んだのか 歴史

 偉人・敗北から教訓を学ぶ第26回は、鎌倉時代末期、後醍醐天皇に仕えた忠臣の楠木正成の敗北を紐解いていきます。日本三忠臣と呼ばれ、皇居にも楠木正成像がありながら、鎌倉幕府を滅亡に導いた楠木正成の敗北から、現代にも役立つ教訓を探っていきましょう。 

楠木正成とは

楠木正成 人物年表表

 後醍醐天皇に仕え、大楠公と呼ばれた楠木正成は幼い頃から学問や兵法を学び、悪党と呼ばれた商業武士団の頭領と成り上がります。民の生活を守るために役人たちとも対峙し、民衆の共感を得ていきました。転機となったのは、倒幕を目指す後醍醐天皇との出会いでした。
世直しという後醍醐天皇の大義に共鳴した楠木正成は、大木や岩を投げ落とす奇抜な戦術で、幕府軍を倒し、鎌倉幕府を滅亡に導きます。後醍醐天皇の新政権に加わるが、公家中心の政治体制に武士の不満が募っていきます。
そして、足利尊氏が天皇に反旗を翻したのでした。楠木正成は後醍醐天皇の政治が民衆にも受け入れられていないことに気づきながらも、後醍醐天皇に仕え、弟とともに足利尊氏との戦いに挑みます。そして、追い詰められ、自害に至ったのでした。 

後醍醐天皇と倒幕

 楠木正成は、なぜ最後まで天皇に仕え、無謀な戦いに参戦したのでしょうか。後醍醐天皇が倒幕をしようと思ったのは、そもそもなぜなのでしょうか。天皇に関する決定権が鎌倉幕府にあったことは屈辱であり、そうした不満が広がっていたことを察知した後醍醐天皇は、天皇親政を復活させようと動き出したのでした。楠木正成は、一介の武士が飛躍を遂げるには、天皇の親衛隊となるしかないと考えたというのが研究者の見立てです。 

正成「民を救うために幕府を世直しする」

 1334年、後醍醐天皇による建武の新政が始まり、楠木正成は多くの官職を任せられるようになりました。高知の土豪から、天皇の側近という大出世を遂げることになったのです。ですが、それを公家たちはよく思わず、楠木正成のことを見下していました。身分違いの出世が、公家との確執を生む要因となりました。 

楠木正成敗北までのカウントダウン

 建武の新政はすぐに行き詰まりました。武士を見下す公家と、何もしないのに待遇がいい公家への武士の不満が対立を呼びます。公家に有利な仕組みである建武の新政は、武士の不満を爆発させることになりました。楠木正成はこれを予見していたと思われます。楠木正成とともに後醍醐天皇を支えてきた足利尊氏が反旗を翻したのです。その状況で楠木正成は、武士の心を掌握した足利尊氏に敵わないと考え、後醍醐天皇に足利尊氏との和睦を打診しました。ですが、それに公家は反発し、最悪な結末へと向かっていきます。 

正成「天下の誰もがもはや帝に背を向けていることは明らかです こうなっては私が生きながらえることはもはや無駄なことですので戦場で討死してみせます」

 死を覚悟した楠木正成は息子の正行を呼び寄せます。自分は死ぬがその後、後醍醐天皇を最後まで守るようにと告げるのでした。そして、足利尊氏との闘いに敗れ、神戸市にある湊川神社で、一族が差し違える形で自害を遂げます。敗北ではなく、自分を全うした自己完結という見立てもあります。 

楠木正成の敗北まとめ

楠木正成の敗北から学ぶ教訓
一、自分の得意分野でしょうぶするべし
一、時には取引も大切にすべし
一、自分の名にこだわりすぎるべからず

 江戸時代には国民的なヒーローとなった楠木正成ですが、彼の敗北から私たちは何を学ぶべきなのでしょうか。自分の得意分野で勝負すること、自分が何かを譲ることで何かを得るといった時には取引も大切なこと、そして自分の名にこだわりすぎないことです。時にはプライドを捨てて、誰かに頼ることも重要です。 

 今回の偉人・敗北からの教訓では、後醍醐天皇の忠臣として尽くし、鎌倉幕府を滅亡に導いた楠木正成を取り上げました。大楠公としてヒーロー的な存在にもなっている彼の敗北から、何が学べるのか、興味がある方はぜひ番組を見てみましょう。 

偉人・敗北からの教訓 第26回「楠木正成・無謀な戦いに挑んだ忠臣」はBS11+で配信中

タイトルとURLをコピーしました