鎌倉幕府滅亡後の戦いで命を散らした新田義貞の人生とは 

鎌倉幕府滅亡後の戦いで命を散らした新田義貞の人生とは 歴史

偶然の勝利はあっても、敗北は必然との見解のもと、敗北した偉人たちから教訓を学ぶシリーズ、第27回は新田義貞です。忠義を貫いた後醍醐天皇にまで見捨てられた名将の悲劇を紐解いていきましょう。 

2円札紙幣に描かれた人物

2円札紙幣に描かれた人物

 紙幣に描かれた人物は、偉人の中でも特別な存在と思われるが、実は新田義貞も明治6年~32年まで2円札に描かれていました。天皇陛下中心の時代であったため、天皇に忠心を尽くした義貞が選ばれたのかもしれません。義貞は天皇に忠節を本当に尽くしたのかというと、実はそうではなかったのではないかというのが、歴史作家の伊藤潤さんの見解です。 

新田義貞とはどのような人物だったのか

 鎌倉幕府を滅亡させた立役者となった義貞は、1301年に上野国新田荘で生まれます。新田氏は足利氏と並ぶ源氏の名門でありながら、長きにわたり冷遇されていました。弱体化した鎌倉幕府からの政権脱却を狙う後醍醐天皇が、元弘の乱を起こすと、当初は幕府側に参戦します。病だと言って国に戻ると、後醍醐天皇の綸旨を受け、後醍醐天皇側につき、鎌倉幕府を倒幕するに至りました。倒幕の功績で、義貞は御所を守る武者所のトップである武者所頭人に任ぜられます。 

武者所頭人という御所を警備する武士のトップに任命される義貞

 後醍醐天皇により建武の新政が始まると、武士たちが不満を持ち、やがて足利尊氏と対立するに至ります。義貞は一度は足利軍を退けたものの、大軍を擁して向かってきた足利尊氏に湊川の戦いで敗北を喫しました。足利氏に敗北したことで後醍醐天皇は義貞を無視するようになり、それどころか足利尊氏と和睦を結ぶことになったのです。行き場を失った義貞は2人の皇子を連れて後醍醐天皇の元を離れ、北陸で再起を図ろうとしますが、ある闘いで重傷を負い、その場で自ら最期を遂げました。 

義貞の栄光と敗北
1336年 後醍醐天皇と訣別

新田氏が冷遇された理由

 足利氏も新田氏も源氏の名門であったにもかかわらず、足利氏は尊重され、新田氏は鎌倉幕府から冷遇されていたのはなぜなのでしょうか。 

新田氏・足利氏の関係

 新田氏の2代目は、鎌倉幕府から参戦を求められていたものの、平家が勝つかもしれないと状況を見定めていました。これに対し、足利氏は早くから参戦して、鎌倉幕府の勢力を支えていたのです。いざ、源氏が勝利を収めて、新田氏が近づいたところで、頼朝は何を今さらと怒り、冷たくあしらわれるようになります。こうしたいきさつから、新田氏は足利氏へのジェラシーが高く、足利氏の上に立つことだけを目標に掲げるほどになっていったのです。 

楠木正成の討伐の陣

 鎌倉幕府への不満が高まる中で、後醍醐天皇の命のもと、楠木正成が兵を挙げます。これに対して、鎌倉幕府陣営では、義貞も参戦して兵を挙げました。ですが、病を理由に地元へと踵を返します。地元に戻った義貞の元へ、幕府からの使者が訪れ、現在の価格で6億円(諸説あり)の金を出せと命じてきました。頭にきた義貞は、使者を切り殺してしまうのです。この一件で、鎌倉幕府を敵に回すことになります。義貞は覚悟を決め、後醍醐天皇と楠木正成に味方して討幕を決意します。義貞の弟、脇屋義助に背中を押され、地元の生品神社で1333年に挙兵しました。後醍醐天皇の命に応じ、わずか150人の兵で鎌倉を目指した義貞でしたが、越後から2,000、甲斐信濃から5,000の兵が合流します。 

義貞の挙兵
越後から2,000の兵
甲斐信濃から5,000の兵

 さらに、鎌倉幕府で人質になっていた足利尊氏の嫡男である千寿王も合流しました。千寿王の脱出、幕府に対しての挙兵は、足利尊氏に命じられていた、と言われています。鎌倉幕府は、地形から攻め込みにくい環境でした。鎌倉を警護した経験がある義貞は、稲村ケ崎に渡り、潮の満ち引きを利用し、潮が引いたタイミングで海から鎌倉へと攻め込みました。150年続いてきた鎌倉幕府を、義貞はわずか15日で陥落させたのです。 

15日で鎌倉幕府を滅亡させた義貞

足利尊氏との対立

 倒幕後の後醍醐天皇による建武の新政は、倒幕に尽力した武家を冷遇し、公家を優遇するもので、武士たちの不満が高まっていきました。足利尊氏は、早くから参戦した武士たちに土地を与えるなど、恩典を与えていましたが、義貞はそれができませんでした。足利尊氏の元へ行けば、土地がもらえて地位も上がるので、武士たちはどんどん足利氏の元へとついていきます。しかし本来は、足利尊氏には恩典を与えるような権限はなかったため、後醍醐天皇は警戒します。 

足利尊氏との対立
足利の方が政治的な工作が上手かった

 そんな時、後醍醐天皇は義貞に御所を警護する武者所頭人の地位を与えるのです。地方の御家人としては驚きの出世でしたしかしこれには後醍醐天皇は義貞を盾にして、武士たちを従える足利尊氏を牽制しようという狙いがありました。義貞の敗北への伏線は以下の通りです。ライバルを過剰に意識すると、自分の立場を客観的に見られなくなりがちです。個人的な感情と自分の仕事を切り離して考えないと、いつの間にか孤立するおそれがあります。 

新田と足利の真向勝負と敗北への道

 天皇に尽くす義貞は、新たな幕府を開きたい足利尊氏にとっては邪魔な存在でした。 後醍醐天皇をなるべく敵には回したくないと考えた足利尊氏は、後醍醐天皇の背後にいる義貞に目を向けます。後の脅威となる義貞を討てば、後醍醐天皇に勝てると目論んだのでした。一方の義貞は、後醍醐天皇の命を受けて、足利氏討伐を命じられます。長年、ついに越えたかった足利氏を越え、立場逆転するチャンスが来るかもしれません。しかし、義貞の軍勢では寝返りが続出し、総崩れとなっていきます。橋が落ちた川に、3日がかりで橋を架けて渡り切りますが、敵が追ってこないように橋を落とそうとする家臣に、わずかな時間を稼ぐために橋を切り落とし、慌てて逃げたと言われては末代までの恥になると、武士のプライドを押し出したのでした。これに対して、足利尊氏は「疑いなき名将」と讃えたというエピソードが残されています。 

義貞
「わずかな時間を稼ぐために橋を切り落とし慌てて逃げたと言われては末代までの恥になる」

 楠木正成とともに、足利尊氏を攻撃して九州へと追いやった義貞でしたが、九州や四国の武士たちが足利氏についてしまいます。新田につくより、恩賞を期待できる足利氏についたほうが有利と考えたからです。足利氏は急速に勢力を取り戻し、50万もの兵力に膨れ上がったと言われています。絶望的な状況の中、義貞が率いる官軍5万の兵と、足利尊氏が率いる50万の兵が湊川の戦に挑み、圧倒的な兵力の差で敗れました。楠木正成はこの戦いで自害し、義貞は後醍醐天皇を連れて逃げました。しかし、後醍醐天皇は密かに足利尊氏と和睦を結ぼうとしていたのです。そんな後醍醐天皇の行動を見た義貞の家臣は、「天皇に味方した新田氏を裏切って賊軍である足利氏のところに行くのなら、新田家の首を全て切ってからにせよ。」と申し出ます。それに対して後醍醐天皇は、「和睦を結ぶフリをするだけだ。」と嘘をつき、足利尊氏と和睦を結んでしまうのです。義貞は忠節を尽くした後醍醐天皇にも裏切られたのでした。 

後醍醐天皇
「これは計略だ 一旦和睦をするフリだ」

 義貞は足利尊氏の上に立つことだけを考えていたのに、それが達成できなかったことに落胆したことでしょう。義貞敗北の瞬間からは、以下の教訓が得られます。真面目で一本気な人ほど、したたかな周りの人の策略にハマりがちです。絶望的な状況に陥る前に、プライドを捨ててでも、逃げ出すことも必要かもしれません。 

北陸での戦い

 北陸に向かった新田軍は猛吹雪の中で兵力をどんどん失っていきます。後醍醐天皇は足利尊氏に裏切られ、幽閉されてしまいます。足利尊氏の主導で光明天応が即位し、京都に逃れた後醍醐天皇も朝廷を開き、天皇が2人立つ事態に陥りました。足利尊氏は北朝軍、新田義貞は後醍醐天皇の南朝軍につきます。戦に向かう道中で敵に襲われた新田軍は、家臣が「殿だけでもお逃げください。」との言葉に、「部下を見殺しにして一人生き延びようとは思わぬ。」と言いのけます。 

義貞
「部下を見殺しにして一人生きようとは思わぬ」

 攻撃に遭って落馬し、体を起こした瞬間に矢が刺さり、その場で自害したのでした。わずか38歳の義貞は、自らの手で壮絶な最期を遂げました。結果として義貞は足利尊氏の引き立て役になってしまいましたが、武士として才能がなかったのではなく、新田家と足利家の大きさが最初から違っていたのが要因かもしれません。 

新田義貞の敗北のまとめ

 新田義貞から学ぶ教訓の1つ目は、誇りを持つにもほどほどにすることです。勝敗よりも武士のプライドを重んじるような考え方は、判断を誤り、負ける原因になります。情熱を持つのは良いけれど、それに振り回されてはいけません。教訓の2つ目は、疑心暗鬼にとらわれないことです。先入観を抱くのではなく、実際に接して感じたことや目で見たことがすべてということです。 

義貞の敗北から学ぶ教訓
一、誇りを持つのはほどほどにすべし
一、疑心暗鬼に囚われるべからず

 名将と言われながらも、忠節を尽くした後醍醐天皇に裏切られ、超えたかったライバルの足利尊氏にも負け続けて、最期は壮絶な自害を遂げた新田義貞は、真面目すぎ、プライドが高すぎたのが敗北の一因かもしれません。 

偉人・敗北からの教訓 第27回「新田義貞・忠義を貫いた名将の悲劇」はBS11+で配信中

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