高台院こと北政所の悲しき豊臣家臣団の分裂

高台院こと北政所の悲しき豊臣家臣団の分裂 歴史

北政所が育てたとされる家臣たちですが、秀吉の死後対立し豊臣家は滅亡を招くことになります。なぜ豊臣家臣団は分裂に至ってしまったのか、北政所の敗北について紐解いていきます。 

北政所の存在

北政所の存在
年齢や身分の差が障害に

 秀吉の良き相談相手であった「おね」。のちの北政所は、秀吉に諫言できる立場でもありました。豊臣家という会社組織の相談役であり、事業の責任者であり、共同経営者的な存在だったと言えます。身分の差や歳の差があったものの、当時としては珍しい恋愛結婚で秀吉と結ばれ、家臣団形成に助力を惜しみませんでした。天下人となった秀吉が関白の地位に就くと、おねは北政所の地位を得ます。ですが秀吉の死後は、育て上げた家臣団が分裂し、関ヶ原の戦いで衝突。豊臣家はほどなく滅亡しました。北政所が育て上げた家臣団をコントロールできなかったのはなぜなのでしょうか。 

北政所による家臣団の育成

北政所による家臣団の育成
親族や地元の有望な若者をスカウト

 武家の当主たちには先祖代々からの従者がいましたが、農民上がりの秀吉には家臣がいませんでした。そこで、おねは親族や地元の若者たちをスカウトし、母親代わりとなって秀吉に従順な家臣団を育てていったのです。その中には、秀吉の親族であった福島正則や加藤清正、近江国でスカウトした石田三成や加藤喜明、人質として預かっていた黒田長政などがおり、後に大名まで上り詰めるほど成長を遂げています。北政所は、地位も領地も得ていましたが、実子には恵まれていなかったため、家臣たちをわが子のごとく育てていったのでした。特に可愛がっていた小早川秀秋が朝鮮出兵する際には、戦場に送りたくないと泣いてすがったとのエピソードも残されています。自分の子どもがいなかったからこそ、家臣たちに平等に愛情を注げたことで、家臣たちかも慕われていました。おねはコミュニケーション力に長け、外交も得意だったとされています。おねがいなかったら秀吉は天下も取れなかったかもしれません。 

秀吉の死後

秀吉の死後
天皇の義母
徳川後継者の義母

 秀吉の死後も、猶子や養女が天皇や徳川家に嫁いだことから、北政所は天皇の義母、徳川後継者の義母という地位を築きます。秀吉の死後も地位は崩れることなく、淀殿の子供である秀頼に対しても、秀吉の正室として母としての立場を得ていました。ですが家臣団たちは、武断派と文治派に分かれ、対立を深めていきます。家康は対立を解決しようと力を貸しますが、おねの信頼を背景に力を強めていきます。結果として西軍、東軍に分かれ関ヶ原の戦いへと向かっていったのです。豊臣家の家臣たちが二分されて、命を奪い合う事態になりました。 

家臣団対立の原因

家臣団対立の原因
家臣団は分裂
豊臣家は滅亡

 家臣団が対立したのは朝鮮出兵だったと言われています。朝鮮出兵中は、日本に残っていた北政所にとっては制御ができず、何が起きていたのかも知り得ず、家臣団の対立を収めることができませんでした。関ヶ原の戦いで互いに戦うことを抑えるために、何か有効な手立てが打てなかったのか、後悔が残るところです。豊臣家をなんとか存続させたかった北政所は、豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫の結婚に期待しました。 

豊臣秀頼と徳川秀忠の娘
千姫の婚礼

 婚礼を見届けると北政所は出家し、秀吉を弔う余生を送ることを選択します。出家後も豊臣家をどうにか存続させたいと望んでいましたが、淀殿と意見が合わず、徳川家との対立を招き、大阪の陣で豊臣家滅亡へと向かうことになりました。 

第31回「北政所・悲しき豊臣家臣団の分裂」まとめ

 豊臣家を存続させるために、北政所が何かできることはなかったのでしょうか。できることは限られていますが、組織のトップに立つ人は常に部下たちにビジョンを明確に伝え続けることが大切になります。逆境でも受け手に回らず、相手の懐に飛び込んで関係を築くことがポイントです。北政所の敗北からの教訓をより詳しく知りたい方は、ぜひ本編をご覧ください。 

偉人・敗北からの教訓 第31回「北政所・悲しき豊臣家臣団の分裂」はBS11+で配信中

タイトルとURLをコピーしました