古田織部といえば漫画『へうげもの』で一躍有名になった武家茶人です。茶の湯を大成したのは千利休ですが、織部は彼の弟子として自由な形で茶道を継承していきました。織部は信長、秀吉、家康の三大天下人に仕えた人としても知られています。今回は織部の人生を振り返りながら、彼がどのようにして切腹へと至ってしまったのかを見ていきます。
武家茶人として出世していく織部
古田織部は1543年に美濃国に生まれました。はじめは土岐氏に仕えていた織部ですが、やがて尾張から勢力を拡大した信長の家臣となります。信長が本能寺の変で明智光秀に倒されると、秀吉に仕えるようになりました。この頃まで単なる武将の一人でしかなかった織部ですが、ここで彼の人生を変える大きな出会いに巡り合います。千利休のもと茶道を習うようになった織部は才能を開花し、「利休七哲」に数えられるようになりました。武将としても活躍し、小田原攻めや関ヶ原の戦いなどにも参戦しています。織部は武将と茶人の二刀流で活躍した人物と言えるでしょう。
家康から警戒された織部
秀吉のもと頭角を現した織部ですが、1598年に秀吉は亡くなります。当初は秀吉の息子である秀頼を支える決心をしていた織部ですが、一方で秀吉に代わって天下を取ろうとしていた家康も彼の才能を認めていました。関ヶ原の1年前、家康は謀反を起こしたとして会津にいる上杉景勝の討伐に向かいます。この時、征伐を優位に進めるために、織部は佐竹義宣という武将に徳川につくように説得。茶の湯で養った交渉力を武器に、見事義宣を説得することに成功しました。続く関ヶ原の戦いでも活躍し、家康から一万石を与えられて大名となります。このように家康に認められた織部ですが、同時に警戒もされていました。
徳川ではなく豊臣についた織部
特に家康が心を許さなかった理由として、織部が依然として豊臣家の存続を模索していたことが挙げられます。織部としては、自分が今の地位にあるのは秀吉のおかげなのだから、その息子である秀頼を助けるのは当然だと考えていました。家康は豊臣家を滅ぼし天下を確実にしたかったのですが、織部はどうにかして両家の戦いは食い止めなければいけないと考えていたのです。しかし織部の願い空しく、家康は大坂で豊臣との最後の決戦に臨みます。この時、織部の家臣である木村宗喜が謀反を起こした疑いで捕えられてしまいました。木村は豊臣と徳川軍を挟み撃ちにする作戦を練っていたのです。家臣が謀反を計画していたとなれば、当然ながら織部にも疑いの目は向けられざるを得ません。果たして織部が謀反に関わっていたかどうかは、今も議論が分かれるところですが、家康は織部を許さず、即刻切腹を命じます。織部は一切申し開きをせず、そのまま切腹をしこの世から去りました。
自分の実力をわきまえないで行動してしまった織部
織部は、秀吉からの恩義を重視しながら行動していました。その意味では彼は一貫しており、もしかしたら切腹の場においても自分は失敗などしていないと考えていたかもしれません。結果的には豊臣は負け、織部もこの世を去る羽目になりました。伊東潤先生は、織部は自分の得手不得手をわきまえないで行動したからこそ失敗したと断じます。
第32回「古田織部・家康の逆鱗に触れた大名茶人」まとめ
家康には敗北した織部ですが、彼が利休の精神を受け継ぎつつ、独自にアレンジした茶道は今日も生き残り続けています。実力者でありながら、どこか飄々としている織部に魅了されている人は多くいるのです。