白虎隊といえば、16歳から17歳の少年たちによって構成された会津藩の部隊です。新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争で会津藩は苦戦を強いられ、鶴ヶ城から上がる煙を見た17人の白虎隊は敗北を悟り、集団自決を遂げました。若き少年たちは、なぜ死ななければならなかったのでしょうか。番組では白虎隊集団自決の謎を紐解いていきます。
会津藩の教育が白虎隊を作った
白虎隊の少年たちがどのように育っていったかを見ていきます。武士階級に生まれた少年たちは、会津藩校である日新館に通い、徹底した英才教育を受けていました。「ならぬことはならぬ」という教育方針のもと、少年たちは大人たちの言うことを唯々諾々と聞き、武士として生きるにあたっての精神を学んでいきます。
彼らは「死すべき義に当たった時に死ななければ汚名を永遠に残すことになる」という、後の集団自決につながる教えをも学んでいました。
エリート集団ゆえに藩主に忠実すぎた白虎隊
戊辰戦争前に尊王攘夷派として幕府側に立って積極的に動いていた松平容保は、長州藩や薩摩藩に恨みを買ってしまいます。だからこそ、無血開城後にもかかわらず新政府軍は会津に侵攻したのでした。会津藩は、何がなんでも新政府軍に勝つために、あらゆる年齢層の人材を駆り集めます。白虎隊は少年たちによって構成されました。白虎隊もエリートとしての誇りがあるからこそ戦争には積極的に参加しました。一番激しい戦地に自分たちを投入してほしいとの建議書まで出したほどです。こうした勇ましい精神が逆効果になってしまい、白虎隊は自ら逃げ場をなくしていきました。
白虎隊はなぜ自決したのか?
白虎隊は鶴ヶ城のほうから上がる煙を見て、城がすでに攻め落とされたと誤認し、自決したと考えられてきました。しかし生き残りである飯沼貞吉が晩年に残した手記によると、実は白虎隊は鶴ヶ城がまだ無事だとわかっていたと言います。では、なぜ彼らは自決を選んでしまったのでしょうか。飯盛山に逃げ延びた17人の少年たちは、山を下りて城へと援軍に向かうか、ここで死ぬかの議論を行います。もし城へと援軍に向かった結果、敵の捕虜となってしまったら恥をさらすことになるため、ここで死んだほうが名誉なのではないかという結論に至りました。彼らは最後まで、武士としてのプライドを捨てきれなかったからこそ死を選ばざるを得なかったのです。
生き残りとして天寿を全うした飯沼貞吉
飯盛山で自決した17人の少年の内、16人はその場で亡くなりました。その中の一人である飯沼貞吉は村人に発見され、一命を取り留めます。当初は生き残ってしまったことを恥ずかしく思い、何度も自殺を考えた飯沼ではありますが、彼を助けた長州藩士の説得もあり、新しい時代を生き抜くことを決心しました。彼はやがて通信兵として日露戦争に参加し、日本の勝利に貢献することとなります。自分の任務を忠実にこなす姿勢は、ひとえに会津藩の教育が生んだ賜物と言えるでしょう。
第33回「白虎隊・会津に散った若く尊き命」まとめ
白虎隊の物語は若き少年たちが藩の精神に殉じて自決する美談として語られがちです。少年たちの命が「ならぬことはならぬ」という大人の教育によって失われたことは悲しいことです。今回は白虎隊の失敗という形で番組が進みましたが、先駆者の言葉に縛られすぎないことや、状況を客観的に見極めることの大切さを学ぶことができます。詳しい内容は、ぜひ番組をご覧になってください。