名補佐役を川中島の戦いで亡くした武田信玄の悲劇

名補佐役を川中島の戦いで亡くした武田信玄の悲劇 歴史

武田信玄といえば、言わずと知れた戦国最強の武将です。信玄は、53歳で亡くなるまで無数の戦を経験してきましたが、そのうち3敗しかしなかったと言われています。特に上杉謙信との間で12年にわたって繰り広げられた川中島は今でも語り草になっています。そんな信玄には、信頼できる弟として武田信繁がいました。この番組では、信繁の死までの道のりをたどりながら、武田家の繁栄と衰退を追っていきます。 

弟信繁とともに勢力を伸ばしていく信玄

弟信繁とともに勢力を伸ばしていく信玄

 そもそも信玄は、クーデターの結果、武田家の当主となった人物でした。 21歳の時、父信虎に反感を抱いていた家臣たちが信虎を駿河に追放し、信玄に家督を継がせたのです。信玄が果たしてこのクーデターに乗り気だったかは諸説ありますが、一方で党首になるにあたって不安を抱いていたのは間違いないところでしょう。 

1541年 重臣らと父・信虎を駿河に追放

 父が家臣によって追放されたからには、自分もそうならないとは限りません。そこで、信玄は自らの弟である信繁をナンバー2に据えて、いざという時腹を割って話せる相手として重用しました。 

弟・信繁を補佐役に

 こうした信玄の信頼に応え、信繁は内政・外交ともに力を発揮していきます。たとえば、信玄は甲斐の国の隣国信濃の国に侵攻しましたが、この時に諏訪氏の家臣の反乱を策動したのが信繁です。 

川中島の戦いで信繁を失った信玄

川中島の戦いで信繁を失った信玄

 信玄は、この後村上義清に手痛い敗戦を喫しますが、後にリベンジしました。追放された村上は越後国へと逃げ延び、上杉謙信に助けを求めます。信玄にとっても北信濃は重要な拠点ですから、ここを落とせば天下統一は目前です。こうして、信玄と謙信の間に長年にわたる川中島の戦いは火蓋を切って落とされました。 

信繁が上杉軍の動きを察知

 当初信繁は、この戦いで補給や交渉などの裏方の仕事を進めていました。しかし、1561年に第四次合戦が勃発すると、信繁も自ら戦場に打って出ざるを得なくなります。両軍のにらみ合いが続く中、信玄はある日の夜、霧が出たのを見計らって謙信を挟み撃ちにしようと目論見みました。しかし、その目論見は謙信に見破られ、信玄は窮地に立たされます。そこで、信玄を守るために意を決したのが信繁でした。彼は目の前に押し寄せる上杉軍に立ちはだかりますが、あえなく討ち死にしてしまいます。 

信繁の死は美談ではない?

 信玄は、信繁の亡骸を抱きながら人目もはばからず泣き崩れたと言われています。いかなる時も冷徹に振る舞った信玄が、珍しく泣いた姿は多くの歴史ファンの感動を呼んできました。しかしながら、伊東潤先生は本当に泣いたのだろうかと疑義を呈します。伊東先生は、もともと父信虎に可愛がられていた信繁が、信玄に対して申し訳なさを抱いていたのではないかと推測します。 

信繁の死以降退潮していく武田家

 信繁の死以降、武田家は内紛を抱えるようになります。まず嫡男であった義信が謀反を企てたのですが、信玄はこれを察知し、彼を幽閉しました。この時に信繁がいたらもしかしたらこうしたお家騒動は起きなかったかもしれません。 

信繁がいればお家騒動は回避できた

 この事件以降、どんどんカリスマ性を高めていく信玄に逆らえるものはもはや武田家にはいなくなりました。信玄ありきで結束を保っていた武田家は、彼の死以降急速に勢力を失っていきます。義信の代わりに嫡男となった勝頼は、臣下の制止を振り切り長篠の戦いに臨みましたが、織田信長に敗れてしまいました。 

「武田信玄・名補佐役を亡くした悲劇」まとめ

 見てきたように、信繁は信玄以上の影響力を持った人物でした。彼が討ち死にせずに信玄の死以降も武田家を支え続けていたら、信長や秀吉などは思うように勢力を伸ばせなかったかもしれません。川中島の戦いで信繁が亡くなったことは、歴史のターニングポイントとも言えるでしょう。 

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