偉人・敗北からの教訓 第35回は、荒木村重から学んでいきます。荒木村重といえば戦国期を代表する武人です。摂津国を実質手中に収めていた村重は、信長に味方して彼の天下統一を助力しました。しかしながら、彼はある時突如謀反を企てます。この謀反は結局失敗し、村重は隠居せざるを得なくなり、「裏切者」のレッテルを貼られるようになってしまいました。一体なぜ村重は謀反を企てたのでしょうか。
信長に味方し名声を得ていく村重
村重が1573年に信長の味方になるところから見ていきます。当時信長は四方八方を敵に囲まれていましたが、そんなところに助けとなったのが摂津国にいる村重でした。なぜ村重が信長についたかといえば、当時将軍だった足利義昭の臣下を討ち取っていたからです。この取引は信長にとっても村重にとっても利益になるものでした。
村重はまず摂津国内の反信長勢力を掃討し、信長から摂津守に命じられます。信長からの信頼を得た村重はその後も実力を発揮し、さまざまな戦いに身を投じ成果をあげていきました。本願寺の一向一揆の鎮圧や播磨国で毛利家の侵攻を食い止めたのはその一例です。
信長を信用できなくなった村重
出世街道を駆け上がっていた村重でしたが、いざ中国への侵攻に乗り出す段階になると雲行きが怪しくなっていきます。毛利家との戦いにあたって司令官を任されたのは秀吉でした。当然ながら村重としては面白くありません。これまで毛利家との戦いを仕切っていたのは自分なのに、突然秀吉にその役目を奪われたからです。伊東潤さんは村重の気持ちはわかるとしつつも、もう少し冷静になれば秀吉政権下でもっといい役目を与えられただろうと分析しています。
信長を裏切り城にこもった村重
不遇に耐えきれなくなった村重は、1578年に信長を裏切ることを決心します。そのきっかけとなったのは、本願寺顕如からの書状でした。そこで村重は、摂津国だけでなくもう一国の領土も保証されたのです。信長からは説得されましたが、村重の決意は固く、自らの居城である有岡城に籠城しました。しかし、村重の家来が信長に寝返ったり、毛利軍が秀吉に苦戦したりしたことで作戦は失敗します。やむを得ず村重は有岡城から脱出しました。
これまで、この脱出は自らの命を守る一方で、家臣たちを見捨てる卑怯な行動とされてきました。しかし今日の研究では村重は戦線を立て直すために脱出したという説が出されています。いずれにせよ、村重を失った有岡城はあっという間に信長軍によって攻め落とされてしまいました。
信長からは、最後の情けとして謀反は許すから城を明け渡すよう要求されます。しかし、村重はもはや室町幕府や毛利家、本願寺などと味方になっていましたから引き返せませんでした。結局、有岡城に残った村重の家臣やその一族はまとめて処刑されてしまいます。
汚名を背負いながらも生き続けた村重
毛利家に逃げ延びた後、信長が亡くなってから村重は千利休の弟子となり、茶人として新たな人生を歩みます。彼は後に大坂の堺に戻り、秀吉と毛利の和睦の交渉も担うようになりました。かつて信長の家臣として仕えていた村重は、秀吉との交渉役にうってつけだったのです。
なぜ彼が裏切者の誹りを浴びながら生き続けたかといえば、改めて荒木家を再興しようとしたからです。そんな村重の位牌は、現在兵庫県の伊丹市にある荒村寺というところに収められています。裏切りに裏切りを重ねながら生きてきた村重は、心を入れ替えて人に愛される茶人として天寿を全うしたのでした。
「荒木村重・信長に反旗を翻した籠城戦」のまとめ
村重は確かに信長を裏切りましたし、結果的に家族を見殺しにした人物です。彼はそういった後悔を抱きながら、改めて茶人として生まれ変わって歴史に名を残しました。こうした村重の姿は、失敗した後の生き方というものを私たちに教えてくれます。