偉人・敗北からの教訓シリーズ、今回取り上げるのは大塩平八郎の乱で有名な大塩平八郎です。江戸幕府に激震をもたらす反乱を起こしながらも、敗北した大塩平八郎から現代に生きる我々にも役立つ教訓を紐解きます。
大塩平八郎と正義感
大塩平八郎は強い使命感を持ち、民の救済を目指した人物です。1793年、大坂天満に生まれた平八郎ですが、大塩家は代々奉行所で与力を勤める役人の家系でした。両親を早くに亡くし、祖父に育てられた平八郎は、祖父の跡を継いで与力見習いになります。使命感や正義感が強い平八郎をよく思わない同僚や上司も多かったと言われています。
その後、大塩平八郎は陽明学に傾倒し、知行合一という言葉に共鳴します。そして、私塾・洗心洞を開き、未来を担う人材の育成を始めたのでした。平八郎の正義感の強さは、一体どこから来たのでしょうか。もともと自分を追い込む性格のところに、幼い頃から学んでいた儒学の精神が拍車をかけたというのが、歴史作家の伊東淳さんの見立てです。
正義感の強さと怒りの爆発
大坂は商人の街として栄え、奉行や与力などの役人たちは商人からお金の融通を受ける者が少なくありませんでした。ですが、平八郎は役人としての立場を貫き、受け取ることはありませんでした。平八郎はキリシタンの摘発などで手柄を上げていきますが、不正無尽の摘発にも乗り出します。みんなでお金を出し合って助け合う無尽のシステムを悪用し、町民から集めたお金を搾取していた与力もいたためです。摘発してお金を取り戻した平八郎は、それを町民へと返したのでした。
奉行らの不正や腐敗を許せなかった平八郎は、倫理と使命感を持つ若者の育成をするべく、私塾の運営に尽力していきました。そこへ天保の大飢饉が起こったことで、平八郎の怒りが爆発することとなります。大坂が食糧難に見舞われても、奉行が江戸を優先させ、適切な対応をしないことに怒り、庶民を集めて兵を挙げたのです。これが、歴史にも名を残す大塩平八郎の乱です。
大塩平八郎は正義感が強く、民への想いも強い人物ですが、思い込みが激しく、自分で思ったことを貫き通すところがあります。ここで、大塩平八郎の敗北への伏線が見えてきます。 抑えきれないほどの強い正義感は、自分を追い込み、選択肢を減らしてしまうので気を付けなくてはなりません。怒りに任せて突き進むのは避けたいものです。
大塩平八郎の乱の顛末
大塩平八郎の乱は突如として起こったような印象ですが、準備段階がありました。乱を起こす2ヶ月ほど前に、幕府や奉行所への怒りを驚くほどの長文に書き連ねます。この檄文を読みやすいように32分割にさせて刷り上げると、庶民たちに大量に配布し、決起の賛同者を募っていったのです。
大塩平八郎の乱の決起日まで2日に迫った日、大塩平八郎は奉行の不正や汚職の実態を書き連ね、江戸幕府の老中へと建議書を送ります。ですが、門人の一人が裏切り、奉行に決起があることをバラしていたのです。その頃、最も信頼を寄せていた弟子が決起の中止を呼び掛けると、自分の考えを否定されたと怒り、その場で首を切ってしまいます。
一方、決起が暴かれたことを知った平八郎は、予定していた時刻を繰り上げ、決起に至ったのでした。ですが、乱はその日のうちに鎮圧されてしまい、逃げることとなります。最終的には大量の爆薬を抱えて壮絶な自害を遂げます。大塩平八郎が敗北した瞬間は、人生の価値観は人それぞれであり、自分の正義が絶対とは限らないことを見逃していたことです。
死後に与えた大きな影響
決起直前に役人の不正、腐敗を記した建議書はどうなったのでしょうか。実は建議書は未開封のまま返却される運びになりました。飛脚が途中で病に倒れ、それを引き継いだ旅人が捨ててしまったのです。
後年発見された建議書には、歴代の老中たちの不正が暴かれており、幕府を震えあがらせるには十分なものでした。政治は民のためにあり、役人の目を覚まさなくてはならないという熱意が読み取れます。この精神が30年にわたって脈々と受け継がれ、幕末の志士を呼び覚まし、江戸幕府の倒幕と明治維新につながっていったのでした。
大塩平八郎・世直しを目指した過激な戦い まとめ
大塩平八郎は正義感が強く、民のための政治をと情熱を燃やしていたものの、決起という形で庶民を巻き込んでしまったことが悔やまれます。自分が正しいという思い込みの強さや言いたいことを長々とか連ねてしまうところも敗北の原因です。言いたいことは伝えやすく端的にまとめることも大切です。大塩平八郎の性格や生き様、大塩平八郎の乱の前後に起きた壮絶な展開については番組で詳しくご覧いただけます。