偶然の勝利はあれど、敗北は必然と言われています。歴史上の人物が敗れたのは、どのような要因や理由があったのでしょうか。今回は信長に反旗を翻した名将、松永久秀を取り上げます。
悪人と称される松永久秀
松永久秀の印象といえば、残忍で強く荒々しい人物、悪い人物などと言われています。久秀の三大悪事と呼ばれる歴史上の出来事もありますが、最近の研究では、そこまで悪い人ではないのではといった説も高まっています。三大悪事とは、将軍・足利義輝殺し、主君・三好義興殺し、東大大仏殿焼き討ちです。本当に松永久秀が行った悪事なのでしょうか。
松永久秀の人物像
1508年に摂津国で生まれたとされる松永久秀は、斎藤道三、宇喜多直家と並び、戦国三大梟雄に数えられます。梟雄とは残忍で強く荒々しい人物の意味です。将軍、主君の殺害と大仏殿の焼き討ちという三大悪事を働いたと言われる松永久秀ですが、本当にそのようなことをしたのでしょうか。
松永久秀は、信長よりも先に最初の天下人になったと伝えられる三好長慶に仕えており、低い身分からどんどん出世していきました。三好長慶が亡くなると、三好家の一族と重臣からなる三好三人衆と対立します。その当時、勢いを増し、上洛を目論んでいた信長に目を付け、信長に高価な茶器を献上して結束を強めると、反信長勢力との戦いに参加しました。
ですが、室町幕府十五代将軍に就任した足利義昭の不穏な動きに翻弄され、信長と対立することになります。そして、松永久秀は打倒信長を目指し、信貴山城に籠城しましたが、兵力に勝る織田軍に攻められ、無念の自害を遂げたのでした。
三大悪事は行っていなかった!?
肖像画からは残忍さは感じられず、容姿端麗ではない姿が描かれています。松永久秀が使えた三好家は、四国から畿内にかけて勢力を拡大していた一族です。久秀は三好長慶に絶対的な信頼を置き、天下人にしたいと思っていたと考えられます。
久秀に一大転機が訪れたのは57歳の時で、長慶が亡くなったことです。これを機に久秀も隠居を考えましたが、そうはいきませんでした。三好三人衆が将軍であった足利義輝殺しを行いましたが、殺害に久秀は関与していなかったと言われています。東大寺大仏殿が焼けたのも意図したものではなく、不慮の事故であり、かなり悔いていたと言います。
そして、この混乱を収めるには信長の力が必要と考え、信長の上洛に力を貸しました。久永が信長を手助けしたのは、足利義昭を担ぎたかったからというのが伊東潤さんの見解です。
久秀敗北までのカウントダウンと敗北の瞬間
信長は足利義明を将軍に押し上げるパートナーだと思っていたところ、信長が天下を取ろうという野心を表したため、久秀との対立が高まっていきます。やがて、信長に追い詰められた久秀は自らの城に火を放って、自害を遂げました。亡くなった10月10日は、10年前に東大時大仏殿が焼失した日と同じだったため、バチが当たったという噂が広がり、久秀の悪名が広がった原因になりました。
もし歴史作家である伊東潤さんが久秀の立場だったら、どうしていたのでしょうか。誰かを頼っての挙兵はしないというのが見解です。久秀による二度目の挙兵は毛利輝元を頼っての挙兵でした。誰かを頼るということは、希望的観測のもとで挙兵するに過ぎないためです。他人が入ると思惑違いが起こり、失敗の可能性が高まってしまうからです。
久秀の敗北がもたらしたもの
久秀の墓がある達磨寺の住職によれば、三好家の発展のために手腕を発揮し、頭角を現した人物です。久秀の死後、明智光秀が下剋上を起こして信長を倒しましたが、その意図には違いがあると言われています。
久秀にとっての下剋上とは、社会を変えることでした。特定の家柄でないと出世できないという社会を変えようとしていました。明智光秀が信長を倒したのも、久秀が信長に反旗を翻したことがきっかけになっていたのかもしれません。
偉人・敗北からの教訓 第38回「松永久秀・信長に反旗を翻した名将の実像」まとめ
松永久秀は、三大悪事を働いた歴史上の悪人と評されてきましたが、近年の研究により、実際には直接関わっていない、意図したものではなかったのでは?とされるようになりました。実際には、文人気質が強く、主従の秩序を重んじた常識的な人物だったとも言われています。久秀の敗北から何が学べるのか、詳しく学びたい方はぜひ番組をご視聴ください。