偶然の勝利はあれど敗北は必然です。織田信長の息子たち、織田信忠、織田信雄、織田信孝の三兄弟は努力を重ねながらも、誰も天下を継ぐことができませんでした。今回は、織田信長の息子、三兄弟の敗北を紐解いていきます。
三兄弟は三者三様
織田信長には12人の息子がいたと言われていますが、その中で跡継ぎと目されていたのが、信忠・信雄・信孝の3人です。長男の織田信忠は思慮が足らないところがあるものの勇猛このうえなく、次男の織田信雄は温厚な人柄だけれど無能、末っ子の織田信孝は非常に賢い人物でした。
次男の信雄は南伊勢の北畠氏、三男の信孝は北伊勢の神戸氏に養子に出されましたが、信忠は20歳で家督を継ぎます。信長の信頼が厚く、松永久秀に勝利して、荒木村重の反乱を鎮圧するなど、信長の期待に応えてきました。甲州攻めの総大将を務め、宿敵・武田氏を滅ぼしますが、明智光秀の謀反に遭い、本能寺の変で信長とともに自害を遂げてしまいます。信長と信忠の死後、次男の信雄と三男の信孝は織田家の後継者を巡り対立します。
信忠の敗北
信忠は20歳で織田家の家督を継ぎます。信長は自分が家督争いをした経験から、早めに後継者を決めて織田家の安泰を図りたかったという意図がありました。信忠は武勇に長けており、次々に戦いを制し、甲州攻めで武田氏を滅亡させ、織田家が勢力を一気に高めることに大きく貢献しています。天下人を継がせようとしていたところに、明智光秀が謀反を起こします。
当時は、敗北しても名誉を遺すことへのこだわりが強く、自害という道を選んだのでした。信忠は明智光秀から逃げる選択肢があったものの、逃げることはしませんでした。戦わずして逃げるのが、正解だったのではというのが伊東潤さんの見立てです。信忠敗北の瞬間は、重責を担う身であればこそ、時には逃げる選択も大切であったということです。
残された次男と三男の争い
父と兄を同時に失った残された兄弟はどうなったのでしょうか。信長と信忠の死後、次男の信雄と三男の信孝は織田家の後継者を巡って対立することとなりました。信孝は三男ですが、母親が違うため、年齢は信雄と同じでした。
この信孝を苦々しく思っていた人物が秀吉です。秀吉が信雄を支援したため、信孝は柴田勝家と組んで戦いに挑みました。これが賤ケ岳の戦いへと発展し、信孝は壮絶な最期を遂げることになります。信孝は四国攻めの総大将を任されるなど、武将としても有能でしたが、後継者争いに敗北しました。
信雄と秀吉
賤ケ岳の戦いに圧勝した秀吉は、自らが天下取りになれるとの確信を得ます。一方、織田家の当主となった信雄についてくる者はおらず、多くが秀吉側へとついてしまいました。信雄を唯一支援したのが徳川家康です。家康は勝利を確信していましたが、秀吉は朝廷からお墨付きを得るなど先回りをします。秀吉は、信雄の拠点であった長島城を攻略し、刀を突き付けて領地割譲と人質を出すことを求めます。信雄は織田家の存続と引き換えに、その講和を受け入れ、天下人の座を明け渡したのでした。
敗北の原因
秀吉は、信孝に自害を命ずるにあたり、自らの名ではなく信雄が命じたことにしました。信孝を支援していた家臣たちは、信雄に対して不信感や恐怖を抱きます。これこそ、秀吉の画策したところで、信孝と信雄の関係をうまく利用して、織田家の分裂を図っていったのです。信雄・信孝の敗北の瞬間は、目先の損得に縛られると、大きなものを失うことがあるということです。
信雄のさらなる敗北
関白に上り詰めた秀吉は、信雄を内大臣とし、ナンバーツーの地位を与えました。好待遇に思えますが、秀吉が上であり、信雄が下であることを世間に知らしめるための処遇です信雄は家康に働きかけ、秀吉に臣従させると、秀吉の天下統一に貢献しました。秀吉は徳川領を与えようとしますが、せっかくの加増・移封を拒んでしまったことで、領地を取り上げられる改易となり、織田家は所領を失うことになったのです。
敗北を紐解く
信雄は、なぜ加増・移封を拒んでしまったのでしょうか。父祖の墳墓の地を守ることが子孫の役割という思想が根付いていたこと、領民と一体化した国人の強さ、自分たちの土地に利権を持っているので移封に応じると国人の支援が得られなくなることを恐れたためです。
偉人・敗北からの教訓 第39回「織田三兄弟・天下を継げなかった息子たち」まとめ
伊東潤さんのアナザーストーリーとして、三兄弟の中で最も後継者に適任だったのは三男の信孝だと言います。なぜそう思ったのでしょうか。3人それぞれから学ぶ教訓を知りたい方も、ぜひ番組をご視聴ください。