今回は、豊臣秀吉の従兄弟であり、秀吉子飼いの大名・福島正則の敗北を紐解きます。豊臣家と徳川家という二つの大きな勢力の間で揺れ動きながら、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した正則。なぜ東軍につく決断をしたのでしょうか? その背景にある複雑な人間関係や、正則が抱えた苦悩を紐解き、現代にも通じる教訓を見つけていきます。
福島正則の波乱に満ちた生涯
福島正則は1561年、尾張国の桶屋の長男として生まれました。元は武士ではなかった正則の人生が大きく変わったのは、1583年の賤ヶ岳の戦いです。この戦いで、正則は賤ヶ岳の七本槍の筆頭として華々しい戦功を挙げ、5000石を賜るという快挙を成し遂げます。
その後も1592年の朝鮮出兵に参加し、1595年には尾張・清州に24万石を得るなど、出世街道を順調に進みました。しかし秀吉が亡くなると石田三成らと激しく対立。家康と縁戚関係を結び、1600年の関ヶ原の戦いでは、家康率いる東軍勝利の立役者となったのです。
なぜ正則は家康に味方したのか?
正則は秀吉の従兄弟であり、豊臣家大名の筆頭格でした。しかしなぜ秀吉没後、豊臣家のために戦わず、家康側についたのでしょうか?
一説には、秀吉亡き後の豊臣家を繁栄させるには、家康を支持したほうが最良と考えたためだと言われています。正則は、石田三成が豊臣家を悪い方向に導こうとしていると判断し、豊臣家を守るために家康側につく決断を下したのです。
しかし家康の本当の狙いは、豊臣家を利用し、自らの権力を固めることにありました。正則はその野心を見抜くことができず、家康に翻弄されることになります。
家康の野心に気づけなかった正則
関ヶ原の戦い後、正則は、家康が豊臣家を支えてくれると信じていました。しかしその期待は無情にも裏切られます。家康は政権簒奪を狙っていたのです。秀頼の関白就任を阻止し、征夷大将軍の位を息子の秀忠に譲るなど、徳川幕府の基盤を固めていきます。家康の狙いに気がついたときには、もう家康に対抗できる手段がありませんでした。
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しかしまだ完全に徳川の世になったわけではありません。秀頼の官位は秀忠よりも高い右大臣で、もし家康が亡くなればひっくり返せるチャンスはありました。さらに「秀頼が15歳になったときに政権を返す」という秀吉の遺言があったといわれています。
正則はなぜ、打倒家康の兵を挙げることができなかったのでしょうか? その背景にあった複雑な人間模様や歴史作家伊東潤さんの見解を、ぜひ番組でお確かめください。