織田信長の敗北を3回にわたりフィーチャーするシリーズ。第2回は、武田信玄と同盟を結びながら裏切られる形となった信長に注目し、現代にも通じる教訓を探っていきます。
️信長と信玄、戦略的同盟と裏切り
信長の武勇が信玄に知れたのは、桶狭間の戦いで今川義元を討った時でした。当時、信玄は川中島で上杉謙信と戦っており、義元は信玄にとって脅威であり同盟者でもありました。信長はその後、徳川家康と同盟を結び美濃を平定、信玄との同盟も締結して上洛を果たします。
しかし信玄は、やがて家康の領土に侵攻し「西上作戦」を展開。この裏切りに信長は激怒します。信玄の死後も信長は武田家への恨みを抱き続け、最終的に武田家を滅ぼすに至りました。
織田信長が徳川家康と武田信玄を取り持ち、今川領における戦いに関与していた新たな説が近年浮上しました。信長にとって今川は長年の宿敵であり、家康と信玄が共闘して今川を討つことは信長にとっても有利な展開だったのです。しかし、信玄の駿河侵攻に対して、同盟関係にあった北条氏康が反発し、信玄と対立する構図が生まれます。
この状況下で信玄は信長に和睦の仲介を依頼。信長は将軍・足利義昭を動かして和睦を進めましたが、それは一時的なものでした。
️信長が仲介役?甲越和与
信玄は信長との同盟関係を保つため、書状を送って信長の協力を確認します。この書状が近年発見されており、番組内で紹介していますので気になる方はぜひご覧ください。伊東潤さんによると、このときの信長は信玄の機嫌をそこないたくなかったため、甲越和与という和睦を推進したと言います。
しかし、この同盟関係が長続きすることはありませんでした。1571年、信長が比叡山に焼き討ちを行ったことを契機に、信玄は信長への挙兵を決意します。信玄は天台宗を擁護する立場を取っており、信長の比叡山攻撃により大義を得たのです。
️信玄の裏切りから学ぶ教訓
戦国時代に数々の勝利を収めた織田信長ですが、晩年には過信が生まれ、次第に他者の気持ちを汲み取る余裕を失っていきました。伊東潤さんは、信長が唯我独尊を強める一方で、周囲には信長に対する嫉妬や焦燥が渦巻いていたと言います。それでも信長はそうした感情や、他大名たちの思惑を充分には読み取らず、周囲との関係が徐々に軋んでいきます。
いかなる時も相手の気持ちを考えることを忘れないことが、危機を回避するために重要です。信長が信玄の野心に気づけなかったことも、信長の敗北を導いた要因のひとつでしょう。
現代社会においても、上司が部下の気持ちや立場を理解せず、自分に黙って従うものと決めつけてしまう場面は少なくありません。しかしそれぞれの立場や思いをよく考え、配慮することが信頼を築くために不可欠であり、組織の力を引き出す鍵なのです。