織田信長の敗北を3回にわたりフィーチャーするシリーズ。第3回は、信長が擁立した室町幕府15代将軍・足利義昭との関係に焦点を当て、その間に起こった対立と破綻の原因を紐解きます。信長はなぜ自ら擁立した義昭を追放し、幕府を滅亡に追いやったのでしょうか。
信長が擁立した将軍・義昭とのすれ違い
信長が義昭を将軍の座に据えた当初、両者の関係は良好でした。義昭は信長を「御父」と称し、深い信頼を寄せていたと言われています。しかし、信長は将軍の権威を利用して勢力を拡大しようとする一方、義昭は室町幕府の伝統的な支配体制を取り戻そうと模索していました。信長は義昭の支持を得つつ、戦の正当性を確保することを狙っていましたが、義昭が次第に他の大名と独自の関係を築き始めたことで、両者の関係には不協和音が生じます。
五ヶ条条書と深まる溝
義昭が将軍に就任してから約1年後、信長は義昭に対し「五ヶ条条書」を出し、義昭の行動を制限しようとします。大名に命令を下す際には信長の同意を得ること、信長の領地から恩賞を出すことなど、信長の意向を重視する内容でした。これは義昭にとって大きな屈辱であり、信長に対する不信感がさらに深まります。義昭は信長を「将軍の擁立者」として尊重するものの、独自に戦国大名たちと結びつくことで勢力を増す道を模索しました。
コミュニケーションの欠如と悲劇の結末
信長と義昭は互いに対話を欠いていた点が、最終的な破局を招いたと歴史作家の伊東潤さんは指摘します。義昭は信長の意図を深く理解せず、信長も義昭の理想を無視していたことで、両者は妥協できない状態に陥りました。信長は義昭に対して「異見十七カ条」を提示し、義昭の政治行動をさらに批判します。この文書を突きつけられた義昭はついに反旗を翻し、信長もまた義昭を強制的に京都から追放するに至りました。
️信長と義昭の対立から学ぶ教訓
どんなに意見が対立しても、相手の人格を否定することは避けるべきです。信長の行動からは、意見の違いがエスカレートし、最終的に関係を破綻させることのリスクが浮き彫りになります。伊東さんは、人間関係において100%自分の勝利を目指すのではなく、相手との共存を図る姿勢が重要だと語ります。現代社会においても、同僚や上司との意見の食い違いにおいて、相手の人間性を尊重しつつ対話を重ねることが、信頼関係の維持に欠かせないといえるでしょう。