偉人・敗北からの教訓 第45回「シリーズ家康② 家康と信長との同盟」

偉人・敗北からの教訓 第45回「シリーズ家康② 家康と信長との同盟」 歴史

今回は家康シリーズ第2弾。清洲同盟の盟友・信長を支え続けた家康ですが、家康の窮地に信長からの援軍は送られず見捨てられます。不条理な同盟関係の中で家康は何を失い、何を得たのか。もし家康が信長を見限り武田氏と手を組んでいたらどうなっていたのでしょうか。

清洲同盟の成立とその背景

清洲同盟の成立とその背景

 1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、家康は今川家からの独立を模索しました。このとき信長も美濃攻略を進める上で背後の安全を確保する必要がありました。この利害が一致した結果、1562年に「清洲同盟」が成立します。

 家康は信長の戦いに参陣し、大いに貢献しました。しかし、信長の天下統一への野心が進むにつれて、2人の関係には徐々に不平等が生じていきます。

同盟関係の試練と三方ヶ原の敗北

同盟関係の試練と三方ヶ原の敗北

 1572年、武田信玄が西上作戦を開始した際、家康は信長に援軍を求めました。しかし信長から送られたのはわずかな援軍のみ。家康は三方ヶ原の戦いで大敗し、多くの家臣を失ったのです。さらに2年後、武田勝頼が高天神城を攻撃した際も信長からの援軍はなく、城は陥落しました。

 これまで何度も信長の戦いに援軍を送ってきたのにもかかわらず、家康は見殺しにされたのです。歴史作家の伊東潤先生によると家康の負担は現代の感覚で数億円規模だったそうです。搾取されるだけの同盟関係でしたが、なぜ家康はこの同盟を継続させたのでしょうか。

 家康にとってこれは苦渋の選択でありつつも、冷静な生存戦略のひとつでもありました。詳しい背景はぜひ番組でご覧ください。

もし家康が武田に味方していたら?

もし家康が武田に味方していたら?

 伊藤潤先生による「アナザーストーリー」のコーナー、今回は「もし家康が信長に見切りをつけ武田勝頼に味方していたらどうなっていたか」について。たとえ武田についたとしても、家康は信長に対して最前線に位置することになります。勝頼が西進しても、信長が東進しても、まず戦うのは家康です。

 勝頼が天下を取ったとしても、家康は最終的には排除される可能性が高かったと先生は語ります。一方で家康が海外に目を向け、シャム(現在のタイ)などで成功を収めていた可能性も考えられます。家康がシャムの王様になっていたと考えると面白いですね。

家康の失敗から学ぶ教訓

 家康の強みは「凡人」だと伊東潤先生は言います。凡人の強みは挫折や失敗から学べること。敗れたときこそ敗因を分析し、次につなげていくことができたからこそ、家康は天下を取れたのかもしれません。家康の失敗と成功の物語はぜひ番組でご覧ください。

偉人・敗北からの教訓 第45回「シリーズ家康② 家康と信長との同盟」はBS11+で配信中

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