徳川家康の後を継ぎ、江戸幕府の基盤を固めた第2代将軍・徳川秀忠。しかし秀忠の人生には数々の失敗がありました。今回は秀忠が抱え続けたトラウマとも言える「関ヶ原遅参」の事件と、それが後の「大坂の陣」にどう影響したのかを見ていきます。
父・家康への恐怖と関ヶ原遅参

徳川秀忠は家康の三男として生まれましたが、兄たちが相次いで嫡男の地位を失ったため、若くして後継者となりました。偉大な父・家康からの重圧を背負いながら、秀忠は関ヶ原の戦いで重要な任務を任されます。しかし真田昌幸の上田城攻めで思わぬ苦戦を強いられ、さらに悪天候に阻まれて遅参。秀忠が到着する前に家康は関ヶ原で勝利を収めてしまいます。

家康は兵を置き去りにしてきた秀忠に激怒し、面会を拒みます。秀忠は深く傷つき、これが一生のトラウマとなったと伊東先生は分析しています。秀忠は「関ヶ原での失態」を強烈に記憶し、後の行動にも焦りがつきまといました。
大坂の陣で再び見せた焦り

関ヶ原の失敗から14年後、秀忠は再び大軍を率いて出陣します。それが「大坂冬の陣」です。遅刻のトラウマに縛られ、「絶対に遅れてはいけない」という強迫観念から秀忠は大軍を急行させ、馬や兵士を疲弊させてしまい、またも家康に叱責されます。専門家によると、このような行動はトラウマによる焦りが原因で、本来の戦略的な判断ができなかったといいます。伊東先生は、秀忠にとって家康はやはり恐怖の対象で、意にそぐわないことをすれば廃嫡される危機感を常に抱いていたといいます。家康に対するコンプレックスがその後の側近への改易につながっていったのかもしれません。
強権政治への転換とその影響

秀頼の助命を請われた家康は、秀忠に判断を委ねます。秀忠は豊臣秀頼と淀殿を切腹させ、将軍の権威を見せつけました。家康の死後、秀忠は幕府の基盤強化に乗り出しますが、その手法は厳しく冷徹なものでした。関ヶ原で功績を挙げた福島正則ら有力大名を次々と改易させます。

伊東先生は「秀忠は諸大名に舐められないために強権をふるったが、人望や徳にはつながらなかった」と指摘しています。秀忠の統治は結果として徳川幕府の長期政権につながりましたが、その武断政治は幕末期の諸藩の反発につながったとも分析しています。
徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣まとめ
凡庸と評されることも多い秀忠ですが、伊東先生は「凡人でありながらも、家康の方針を忠実に継承し、将軍権威を確立した点は評価すべき」と語っています。秀忠の失敗と成功の両面を通して、私たちが学ぶべき教訓は、権力を持つ立場になった時こそ焦りや過剰な厳しさを避け、寛容な心で人と接することの重要性です。秀忠の敗北から見る教訓についてさらに深く知りたい方は、ぜひ番組をご視聴ください!