軽妙な語り口と鮮やかな観察眼で日本文学に新たな地平を切り開いた『枕草子』。この作品の誕生には、涙と挫折、文化による抵抗がありました。今回は、宮廷サロンの華やかさの裏で敗北した清少納言の姿を掘り下げていきます。
雅な文化サロンの女主人として

和歌の名手・清原元輔の娘として生まれた清少納言は、豊かな教養と鋭い感性を武器に、中宮定子に仕える女房となります。宮中では和歌や漢詩の引用、即興のやり取りを巧みにこなすことで一躍注目を集め、定子を中心とした文化サロンの要となりました。

しかし、華やかな日々は突如として暗転します。定子の父・藤原道隆の急死、そして兄弟の引き起こした法皇への矢事件――いわゆる「長徳の政変」によって、定子は中宮の座を追われ出家を余儀なくされます。これは政治の世界における完全な敗北であり、その影響は清少納言にも及びました。
道長派の貴族と親しいと疑われた清少納言は、ついには宮廷を去ることになります。彼女は筆を取る気力すら失い、引きこもるように暮らす日々が続きました。

そんな清少納言に届いたのが、定子からの「白紙」の贈り物でした。以前、清少納言が「白紙と筆さえあれば、死にたい気持ちも和らぐ」と語っていた言葉を覚えていた定子が、無言で送ったものでした。その紙に、清少納言は再び筆を取ります。ここに『枕草子』の原型が生まれました。
書かれなかった「現実」こそが抵抗の証
『枕草子』には、定子が失脚し、后としての権威を奪われ、ついには25歳で亡くなった悲劇的な運命は一切描かれていません。代わりに、定子が最も輝いていた頃の姿だけが綴られています。政治に押しつぶされた現実を書かないという選択こそが、清少納言なりの文化による抵抗であり、記憶の保存だったのです。

たとえば、宮廷の引っ越し先で牛車が入れず、女房たちが髪を振り乱して歩かされるという屈辱的な出来事すら、清少納言は「髪がボサボサなのに、ジロジロ見られて恥ずかしい」と笑いに変えて描いています。
枕草子は文化による反撃だった

歴史作家の伊東潤先生は、定子の出家こそが、清少納言にとって最大の敗北だったと指摘します。中宮という地位を失えば、皇室の祭祀を司る立場としての役目も果たせなくなり、政治的な権威を完全に失ってしまう。その「穴」を突いてきたのが藤原道長でした。 清少納言が守ろうとしたのは、敬愛する定子とともに過ごした雅な時間の記憶です。武力でも政治でもなく、言葉と文化の力によって支えられていた世界でした。敗北の中で彼女が残したこの文化遺産は、時代を超えて今も私たちの心に響き続けています。
清少納言・涙で綴った『枕草子』 まとめ
伊東先生は「もし清少納言が現代にいたら、YouTuberやシンガーソングライターとして共感と意外性を武器に活躍していたかもしれない」と評しました。
政治に敗れ、愛する主君を失いながらも、清少納言は筆を通して世界を救おうとしました。『枕草子』に込められたのは、涙と知恵、そして文化の力。番組ではさらに詳しく解説しています。平安の文化サロンにご興味のある方はぜひご覧ください!