西郷隆盛は薩摩藩の中心人物であり、倒幕運動を推し進めたリーダーです。数々の改革を成し遂げながら一転して新政府に対立することとなりますが、その心は何を望んでいたのか真相に迫ります。
上野に西郷隆盛の像がある理由
西郷隆盛は上野恩賜公園の銅像が有名です。これは、1868年に上野で起こった旧幕府軍と新政府軍の戦いで西郷隆盛が総大将を務めたことに由来します。ただし、西郷の写真は1枚も残っていないことから、銅像はキヨソネというイタリア銅版画家が描いたエッジングをもとに作られました。しかし、キヨソネは一度も西郷隆盛に会ったことはなく、弟の西郷従道と従弟の大山巌の特徴を足したと言われています。
西郷隆盛の人生
西郷隆盛は、文政10年(1827年)に薩摩藩の下級武士の家に生まれました。28歳で藩主島津斉彬の私設秘書に大抜擢されますが、斉彬の死後弟の島津久光と衝突、沖永良部島へ流刑されてしまいます。盟友である大久保利通らに呼び戻され倒幕運動のリーダーとして復帰すると、40歳で薩長同盟を実現、翌年には王政復古の大号令を発しました。
42歳には新政府軍の参謀として戊辰戦争に参戦、江戸無血開城という歴史的快挙を成し遂げます。その後、新政府に参加し廃藩置県などを実施しましたが、意見の相違で辞表を提出、盟友たちと決別することとなりました。
教え子が起こした西南戦争により自刃
新政府と決別後に鹿児島に戻り私学校を設立しますが、新政府への不満を持つ教え子たちが暴発し西南戦争へと発展します。最終的に、西郷隆盛は51歳で鹿児島の地にて自刃、西南戦争は新政府の勝利で終結となりました。無私無欲を貫き、多くの人々から愛されたという人物の波乱万丈の人生がここに終わりました。
西郷隆盛とはどんな人物だったのか
西郷隆盛が薩摩藩に仕えていた時代は、相手が誰でも空気を読まず意見するため、同僚にも上司にも疎まれていたようです。ただ、年齢を重ねると、そうした尖った部分は隠し、あえて「頼りない上司」を装うことで下の人間を育てていたと言われています。薩摩には独自の教育制度があり、人の上に立つのは「勇気のある人間」だとされることから、西郷隆盛はまさしく勇気のある人物であることは間違いないでしょう。
西郷隆盛が生涯背中を追い続けた島津斉彬
島津斉彬は指折りの名君と言われ、43歳で藩主になると、外国の脅威に備えるべく大砲や軍艦などを準備し始めますが、日本を守るのは「人の和」だと考えていました。人々の生活をインフラから近代化することを実行していった名君は、農民たちの苦しみを訴える西郷隆盛に目を留め秘書へ大抜擢されます。
この2人の出会いが、その後の日本の歴史を変えたといっても過言ではありません。西郷隆盛はこの名君を神のようにあがめ、斉彬亡き後はその遺志を受け継ぎ、日本を変える決意を持ったのです。
手段を選ばず遺志を実現
斉彬の弟である島津久光により流刑された後、西郷隆盛は手段を問わず改革を進める決意をしたと言われています。戊辰戦争も西郷隆盛が裏で仕組んだと言われており、こうした面からは穏やかで人に好かれる人物像は微塵も感じられません。その一方で、西郷隆盛がいなかったら明治維新はもっと非情な権力闘争になったであろうとも言われています。江戸無血開城も西郷がいなければ不可能だったと言われていますから、歴史を大きく変えた人物と言えるでしょう。
「薩摩が生んだ明治維新の立役者・西郷隆盛 編」まとめ
西郷隆盛は、清水斉彬の墓前で一度は自刃も考えますが、斉彬の遺志を継ぐために思い留まります。そんな西郷隆盛の望みはただ一つ、「清水斉彬の遺命の実現」だったのではないでしょうか。最後まで信じた上司の理想を貫いた人生でした。