鎌倉政権の謎めいたナンバー2・北条義時 

鎌倉政権の謎めいたナンバー2・北条義時 歴史

北条義時は、令和4年の大河ドラマでも取り上げられた注目の人物です。鎌倉幕府第2代執権として知られ、武家政権の基盤を築いた功績を持つ義時ですが、同時に肖像画が残されておらず、その素顔にはミステリアスな一面もあります。一部では「極悪人」として語られることもある義時の生涯をひも解くと、現代にも通じる多くの教訓が浮かび上がります。 

️源頼朝の側近として歩んだ北条義時の生涯

️源頼朝の側近として歩んだ北条義時の生涯

 北条義時は1163年、伊豆国の小規模な武士団である北条氏の次男として生まれました。転機が訪れたのは、姉・政子が源頼朝と結婚したことです。この結婚を機に、義時は頼朝の側近として政治や武家の実務を間近で学ぶことになります。頼朝の死後、義時は幕府内で激しい権力闘争を経験しながらも、最終的に幕府の実権を握る執権の地位に上り詰めました。

頼朝から絶大な信頼を得た補佐役としての姿

頼朝から絶大な信頼を得た補佐役としての姿

 義時は、頼朝の側近中の側近である「家子」に選ばれ、頼朝から絶大な信頼を得ていました。頼朝が浮気を起こして政子や時政が激怒し、鎌倉を離れる事態になった際も、義時は冷静に鎌倉にとどまっています。修羅場でも動じることなく振る舞う姿は、頼朝からの絶大な信頼を勝ち取るきっかけとなりました。 

13人の合議制

 しかし、1199年に頼朝が急死すると、次期将軍・頼家の独裁的な振る舞いが御家人たちの反感を買うようになります。こうした中で、義時は13人の合議制という体制の一員となり、組織の安定に貢献しました。歴史家の加来耕三先生は、義時が「武家政権のあるべき姿」を頼朝の横で学び、実践したのではないかと語っています。 

️謎に包まれる暗殺事件の真相とは

1219年
3代将軍・源実朝暗殺事件

 義時の生涯には、権力闘争と暗殺事件が大きく絡んでいます。3代将軍の実朝が1219年に鶴岡八幡宮で暗殺され、これに義時が関わっていたのではないかという黒幕説が存在します。しかし史料によって記述に違いがあり、研究者たちの間でも解釈が分かれています。 

承久の乱

 その後、承久の乱が勃発。姉の北条政子とともに窮地を乗り越えた義時は、調整役として政治的な地位を高めながら、事実上の最高権力者として幕府の安定を図りました。 

新しい秩序を築く:北条義時に学ぶ新時代のリーダーシップ

 現代でもポストコロナ時代のニューノーマル(新常態)として、社会に大きな変化が起こり、その後の秩序を作ることが大切だと言われています。義時が承久の乱を経てどのように秩序を作っていったのか、詳しい内容はぜひ番組でご覧ください。これからの時代のリーダーとして大切なことが義時の生涯から学べるはずです。 

偉人・素顔の履歴書 第14回「鎌倉政権の謎めいたナンバー2・北条義時 編」はBS11+で配信中

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