秀吉の天下獲りを支えた名軍師・黒田官兵衛

黒田官兵衛 歴史

戦国時代の名軍師として知られる黒田官兵衛。冷静な判断力と戦略で豊臣秀吉の天下統一を支えた立役者です。官兵衛の出世術や人材育成の手法は、現代のリーダーに多くの教訓を与えてくれます。

軍師として優れていた官兵衛の素顔

官兵衛が戦略家としての手腕を発揮したのは、播磨の小寺政職に仕えていた30歳の時でした。当時、播磨の西には中国地方を支配していた毛利氏、さらに東からは機内を制圧した織田信長が迫り対立していました。

偉人 黒田官兵衛

多くの豪族たちが、昔からのよしみのある毛利に味方すべきだと主張する中、官兵衛だけは織田方につくべきと強く主張。主君と豪族たちを説得した後、岐阜城へ出向いて信長に謁見し、小寺家の臣従と全面協力を約束しました。

官兵衛は、これからの戦いでは大軍の長距離移動が必要となり、交通の要衝である播磨が中国攻めの玄関口として有利であることを説きました。その優れた分析力と交渉姿勢を認めた信長は、自らの愛刀を授けたと伝えられています。

官兵衛

ところがその後思わぬ事態に陥ります。それまで織田方であった荒木村重が突如有岡城にこもり、信長に反旗を翻したのです。
官兵衛は村重を説得するため単身有岡城に乗り込みました。ところが、毛利方に未練を感じていた官兵衛の主君、小寺政職が村重と裏で通じ、官兵衛を捕えて幽閉してしまったのです。寝返りの誘いに乗らなかった官兵衛は、狭い土牢に1年も監禁されてしまいます。救出されたとき官兵衛の体はやせ細っており、命がけの忠義に信長も秀吉も感銘を受けたと伝えられています。

まさかの悲報にも冷静に判断

冷静な官兵衛

その後、本能寺の変が勃発。さすがの秀吉も茫然とする中で、官兵衛はすぐに京へ引き返し、光秀を討つべしと、軍師として冷静な判断を下します。

しかし、230kmもの道のりをわずか10日で引き返すことなど当時では不可能です。しかも秀吉は毛利軍と戦闘中でした。ありえない中国大返しを成功させたのが黒田官兵衛です。官兵衛の戦略と、最大の失敗についてはぜひ番組で加来先生の解説をご視聴ください。

加来先生の解説

黒田官兵衛から学ぶ現代のリーダーシップ

黒田二十四騎

部下の育成に熱心だった官兵衛は、播磨にいたときからの家臣を育て、黒田二十四騎に育成します。人の長所を見出し、組織として育てていく手腕は、現代のリーダーにも通じる教訓といえるでしょう。

44歳という若さで嫡男・長政に家督を譲った後も、現代でいう会長職のような立場で黒田家の発展を支え続けました。時代を読む先見性、人を育てる力、そして組織を守るための決断力。官兵衛の生き様は、現代のビジネスリーダーにも多くの示唆を与えてくれます。

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