今回の主役は7度の主君変更を経て大名へと上り詰めた藤堂高虎です。薄情者、風見鶏などと批判されがちな高虎ですが、ただの「世渡り上手」ではない、卓越した戦略と人間力がありました。築城の名人、戦国随一の処世術の達人としての藤堂高虎の素顔に迫ります。
戦国乱世を生き抜くキャリア戦略!藤堂高虎の生い立ち
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藤堂高虎は1556年、近江国(現在の滋賀県)で生まれました。高虎の生家は名のある武家ではなく、父の身分もはっきりしません。最初に仕官したのは近江の大名・浅井長政でしたが、些細な喧嘩が原因で主君を離れ、その後も何度も主君を変えていくことになります。
一般的に戦国時代に主君を変えることは「裏切り者」と見なされがちです。しかし高虎は時流を読み、より自身を評価してくれる主君を求めて動いたのです。そしてついに1576年、豊臣秀吉の弟・秀長に仕えることで人生の転機を迎えます。

高虎はここで築城技術や軍略、鉄砲の運用など、幅広いスキルを学び、成長していきました。現代でいうところの「キャリアチェンジを重ねながら成功をつかんだ人物」とも言えるでしょう。
築城の名人としての藤堂高虎

高虎が特に評価されたのは築城の才能でした。高虎は江戸城や大阪城、伊賀上野城など、多くの城の設計に関わり、築城名人として名を馳せます。その才能を家康が確信したのが「伏見城の改修」の際のエピソードです。当初の設計では、裏口が孤立しており、防衛上の欠陥がありました。そこで高虎は万が一の事態を考え、敵の侵入を防ぎやすいように間取りを変更しました。しかも工事費用を自ら負担する徹底ぶりです。
完成後、間取りの違いに気づいた家康は高虎に理由を尋ねると「殿の命を守るために必要な変更でした」と答えます。家康はその機転の良さと忠誠心に深く感銘を受けたといいます。
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その後、高虎は伊賀上野城の築城でもスキルを発揮します。高虎が築いた城の多くは合理的で効率的な設計を特徴としており、例えば伊賀上野城では30メートルもの高石垣を築き、敵が攻め込むこと自体を諦めるような構造を作りました。

また、従来の城造りを効率化し、短期間で完成させることができる「層塔型天守」を発明しました。「スピードとコストパフォーマンスを両立させた発想」で、高虎は築城名人としての名声を確立していきました。
戦国を生き抜いた藤堂高虎の処世術
戦国乱世を巧みに生き抜いた藤堂高虎の処世術は『遺訓百箇条』に残されています。そのうちの一つを紹介すると、「家来には情をかけ、多少の失敗は見逃すことが重要である」というもの。虎は、厳しく接するよりも家臣を信頼し、寛容であることが忠誠心を高めることを理解していました。 これは現代の組織マネジメントにも通じる考え方です。厳格な統制よりも、部下が失敗から学び、再挑戦できる環境を作ることが長期的な成功につながります。さらに詳しい内容はぜひ番組でご覧ください。