戦国時代に数多くの猛将が存在する中、生涯無敗という驚異的な記録を持つ武将がいます。それが今回取り上げる九州の名将・立花宗茂です。ポイントは後半の生き方。ぜひ参考にしてください。
立花宗茂の生い立ちと家柄

立花宗茂は1567年、九州の戦国大名・大友家の重臣、高橋紹運の長男として生まれました。のちに大友家の名将・立花道雪の養子となり、戦場で育てられます。大友の柱石である二人の父たちはともに義に厚く、宗茂もその精神を受け継ぎました。

1586年、島津軍が九州を制圧しようと侵攻。宗茂はわずか3000の兵で巧みな戦術を駆使し、島津軍を撃退しました。この戦いが豊臣秀吉の目に留まり、宗茂は大名に取り立てられ、柳河13万2000石を与えられます。
戦国最強と呼ばれる理由

九州は、かつて蒙古襲来の際に日本中から優れた武将が集められた地でした。その影響もあり、戦国時代にも屈強な武将が多く育まれました。その九州で最強と称された島津氏に対し、宗茂は果敢に立ち向かい、その名を轟かせたのです。

宗茂の強さは武勇だけではありません。戦術にも長け、特に伏兵を活用した戦法や、戦場での威圧感を高めた「金甲」と呼ばれる黄金に輝く甲冑の使用など、巧みな戦い方で数々の勝利を収めました。朝鮮出兵でもその才を発揮し、圧倒的に不利な状況下でも敵軍を巧みに翻弄しました。
宗茂の人柄も大きな魅力のひとつでした。家臣との結束を重視し、思いやりを忘れませんでした。戦場で家臣が甲冑の袖を捨てたとき、自らの袖を外して渡したという逸話が残っています。このような行動が宗茂の「無敗の強さ」を支えていたのでしょう。
関ヶ原の敗北と浪人生活
1600年、天下分け目の関ヶ原の戦い。宗茂は家康方の東軍から破格の条件で誘われますが、豊臣秀吉への恩義を貫き西軍に加わりました。しかし、本戦に参加する前に西軍は敗北。領地を没収され浪人となります。

家臣とともに江戸での困窮生活を耐え抜きましたが、宗茂の誠実な人柄は周囲の評価を高めていきます。1614年、1万石の小藩ながら大名復帰を果たし、1620年にはついに旧領・柳河に返り咲きました。関ヶ原で改易された大名の中で、旧領を取り戻せたのは宗茂ただ一人でした。
「義に生きた西国無双・立花宗茂」まとめ
歴史家の加来耕三先生は、宗茂の生き方について「宗茂の冷静な判断力と行動力は、現代のビジネスリーダーにも学ぶべき点が多い」と語ります。敗北を経験しても、感情に流されず、未来を見据えて動く力。それこそが宗茂の真の強さだったのかもしれません。
現代社会でも、組織のリーダーや困難に立ち向かう人々にとって、宗茂の姿勢は大きなヒントを与えてくれます。逆境を乗り越え、誇りを持って進むために、宗茂の生き様から学べることは多いのではないでしょうか。詳しい内容は、ぜひ番組をご視聴ください!