幕末の激動期に「桜田門外の変」で暗殺された井伊直弼。安政の大獄や開国をめぐる強権政治の象徴として知られますが、冷酷な独裁者というイメージを覆す、人間味あふれる素顔が明らかになりました。
埋もれた人生からの出発――修行の日々

井伊直弼は譜代大名・彦根藩に十四男として生まれ、家督相続の望みもないまま「埋木舎(うもれぎのや)」に隠棲。そこでは居合・和歌・国学・茶道などに没頭します。中でも茶道においては、後に『茶湯一会集』を著し、「一期一会」の言葉を初めて文書に記したとされます。この精神こそ、直弼の人生観を象徴するものでした。

歴史家の加来耕三先生は「芸や学問に対しても、常に“本質とは何か”を問い続けていた。そこが直弼の最大の美徳」と語ります。自らの出世が望めない状況下でも、ひたむきに修行を重ねた努力家だったのです。
突然の転機、そして理想の藩主へ

30代にして、兄の急逝によってまさかの家督相続。藩主となった直弼は、仁政と評価される理想を追求する政治を行いました。

やがてペリー来航により幕府は開国の是非を問われます。直弼は「今の国力では勝てぬ」と冷静に判断し、開国を主張。1858年、大老に任命されます。そして迎えた交渉の場。直弼の言葉を誤解した交渉役は、天皇の勅許を得ぬまま日米修好通商条約に調印します。

安政の大獄、桜田門外の変
この無勅許調印は尊王攘夷派から猛反発を招き、「安政の大獄」へと繋がります。多くの反対派が処罰され、独裁者の汚名を着せられた直弼。しかし、番組では罪状書に本人の筆跡が見られないことから「独断ではなく幕府全体の判断だった」とする新たな視点も紹介されました。

1860年、雪の降る朝。直弼は江戸城に登城する途中、桜田門外で水戸浪士らに襲撃されて命を落とします。実は前夜、襲撃を警告する手紙が届いていましたが、本人にしか開封できない規則のため対処が間に合わなかったそうです。
加来先生は「直弼は本来、国学を重んじる上位派の思想を持ちながら、国家のために自らの信念を押し殺して開国を選んだ。これほどの覚悟はそうそう持てるものではない」と語ります。理想と現実の板挟みに悩みながらも、国を守るため決断した、その人間的な葛藤が浮かび上がります。
国難に立ち向かった大老・井伊直弼のまとめ
直弼は本来なら博物館の学芸員のように、静かに探求に打ち込む職が向いていた人物かもしれません。けれど歴史の荒波に投げ出された時、直弼は逃げずに責務を背負い、最後まで己の信念を貫いたのです。
偶然与えられた立場でも、逃げずに最善を尽くす。その姿勢こそ井伊直弼の真の魅力です。コツコツと本質を見極め、与えられた職を全うする。現代の組織やビジネスにも通じる哲学です。ここで紹介しきれなかった内容は、ぜひ番組をご視聴ください!