豪傑は作られた虚像?忠義に厚き肥後の猛将・加藤清正

豪傑は作られた虚像?忠義に厚き肥後の猛将・加藤清正 歴史

歴史上の偉人は私たちが想像する通りの人物であったのかを紐解く、偉人・素顔の履歴書シリーズ第8回は加藤清正です。豪傑伝説は本当だったのか、秀吉への忠誠心は本当だったのか、紐解いていきましょう。

加藤清正の人生ダイジェスト

加藤清正の人生ダイジェスト

 築城名人加藤清正と言われ、熊本城をはじめとする城の築城に関わってきました。秀吉とは25歳の年の差があるものの、いとこの間柄です。幼い頃に父を亡くした清正は秀吉を父親のように慕い、秀吉も我が子のように可愛がっていたと言われています。秀吉には可愛がられたものの、その家臣たちと折り合いが悪く、最終的には家康につき、52万石の大名へと躍進する一方、豊臣家は衰退の一途をたどることになります。

 もっとも、その後秀頼を助けたとも言われ、豊臣家への恩義は忘れなかったと伝えられる人物です。戦術や戦略は抜群の主君である秀吉ができなかったところを補強し、主君のために尽くした人物でした。

豪傑のイメージができたワケ

豪傑のイメージができたワケ

 虎退治のイメージが強く、数々の豪傑伝説があるのはなぜなのでしょうか。それは、明治政府が富国強兵政策を推進するために、これまでの徳川幕府のイメージを否定し、朝鮮出兵などアジアへの進出を目指していた豊臣秀吉の復権を図ろうとしました。

 その結果、秀吉に仕え、数々の戦いで活躍してきた加藤清正に白羽の矢が立ったのです。明治政府における軍神、ヒーローとして祭り上げられました。豪傑のイメージは後から明治政府が作り出したものでした。

 朝鮮出兵の折に朝鮮の王子2人を捕虜にしたことから、朝鮮では鬼上官として恐れられたと言います。しかし、清正は王子2人を解放しており、王子たちから感謝されていました。

 朝鮮から多くの職人を連れ帰り、日本の文化や伝統工芸、技術に影響を与えるなど、日本の発展にも貢献しています。加藤清正の履歴書で、嫌いな人として名を出された石田三成や小西行長は、日本の将来の姿を考えたうえで戦略をとるところ、加藤清正はただただ秀吉のために戦っていた人物であったため、お互い相容れなかったのは致し方ありません。

後の世のための地域開拓

後の世のための地域開拓

 加藤清正は、戦いの面では主君秀吉の為にと考えていましたが、熊本の地では後の世の為、人々が安心して豊かに暮らせるようにと、さまざまな開拓や開発を行い、熊本城も築きあげました。

 熊本大地震で熊本城が大きな被害に遭ったことは記憶に新しいですが、崩れた場所は後世になって改修などが行われていた場所で、清正時代に造られた部分はほとんど被害がなかったとされています。

 熊本城には、敵の侵入を防ぐ仕組みがあらゆるところに配備されています。戦を知り尽くした清正だからできた発想であり、近づくことさえできないパーフェクトな防衛ができる城でした。

 城を守ることで、地域を守ることにつながるというのが清正の発想です。熊本城は今も清正の時代に造られた数々のもので守られています。さらに、もし攻め入られて籠城した際に備え、城の中のあちこちに非常食が隠されていました。履歴書には、清正のモットーとして「後の世のため」「備えあれば憂いなし」が付け加えられました。

清正のトリセツ

清正のトリセツ

 もっと客観的に物事を見る目を養ってほしかったと言いたいところですが、清正の生い立ちを見ると、主君命であったのは致し方ないことかもしれません。一本気な姿勢を買ってあげたいところです。一本気であることを周囲が認め、周りはそれにブレーキをかけることなく、その貢献に応じた処遇を用意することが求められます。今でいう体育会系の人物で、清正のような人物が部下におり、使いこなすことができれば、上司をとことん支え、とてつもない成果を出してくれることが期待できます。

「忠義に厚き肥後の猛将・加藤清正 編」まとめ

 加藤清正は豪傑なイメージがありますが、それは明治政府によって後から作られたスター像です。若い頃はやんちゃでかぶき者だった清正ですが、織田信長を怒らせたことがキッカケで人も変わっていきます。慕っていた秀吉に忠義を尽くすとともに、与えられた熊本の地を後世に残す地域とするために尽力をしてきた人物です。加藤清正の素顔をもっと深堀したい人はぜひ番組をご覧ください。

偉人・素顔の履歴書 第8回「忠義に厚き肥後の猛将・加藤清正 編」はBS11+で配信中

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