日本史の中でも有名な偉人の一人、聖徳太子。聖徳太子が挑んだのは、当時のアジア最大の超大国・隋との対等な外交交渉でした。「日出づる処の天子」で有名な遣隋使派遣で、隋の煬帝を激怒させてしまいます。聖徳太子の失敗を紐解き、現代に生きる私たちは学ぶべき教訓を探ります。
600年の遣隋使派遣――門前払いの屈辱

聖徳太子が生きた時代、日本はまだ国家の体を成しておらず、各地の豪族が割拠していました。聖徳太子は天皇を中心とした国家体制を築くため、仏教の普及や官位十二階、憲法十七条の制定を進めていました。

そんな中、日本が大陸との国交を求めたのが600年の遣隋使派遣でした。しかし、結果は惨憺たるものでした。隋の皇帝は、日本を「理(ことわり)のない国」とみなし、まともに取り合おうとしなかったのです。この屈辱的な結果は、日本書紀には一切記されていませんでした。
国家改革と「日出づる処の天子」

聖徳太子は国を改革し、次の遣隋使に向けて準備を進めました。宮殿を中国風に改め、官僚制度を整え、日本が「文明国」であることをアピールし、607年に再び遣隋使を派遣しました。このとき聖徳太子が送った国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」とあり、日本と隋が対等な関係であることを強調していました。

隋の皇帝・煬帝はこれを見て激怒。「天子を名乗るのは我のみである」と、日本を見下したのです。ですが、隋も日本との関係を完全に断つわけにはいきませんでした。隋は朝鮮半島の情勢を考慮し、日本を味方につける必要があったのです。そのため、隋の皇帝は日本に返書を送ることを決めました。
失われた隋の国書――隠された真実

日本に戻った遣隋使は、隋の皇帝からの国書を持ち帰ったはずでした。しかし、その国書は「百済で奪われた」とされ、日本には残っていません。この出来事には謎が多く、実際には内容があまりにも屈辱的だったため、日本側が故意に消したのではないかとも考えられています。
このように聖徳太子の求めた「対等な外交」は実現しませんでした。聖徳太子の挑戦は結果として屈辱的な敗北に終わったのです。
敗北の中の成功――日本の変革

しかし、聖徳太子の外交は完全な失敗だったわけではありません。隋からの使節を迎えたことで日本は先進的な文化や制度を取り入れることに成功しました。遣隋使以降、日本の政治は大きく変わり、天皇を中心とした朝廷の体制が整っていきました。
また、聖徳太子の「和を以て貴しと為す」という思想は、日本の文化の根幹となりました。聖徳太子が目指した「秩序ある国家」は、後の日本の発展に大きく寄与したのです。
聖徳太子の敗北から学ぶこと

歴史作家の伊東潤先生は、聖徳太子の敗北は、推古天皇の嫉妬を買い、天皇(大王)になれなかったことだと語ります。早くに息子を失った推古天皇の気持ちを洞察できていれば、次の天皇になれたかもしれません。番組では、仏教における国づくりや朝鮮三国との関係など、伊東先生や専門家によるさらに詳しい解説をお聞きいただけます。ぜひご視聴ください!